李瑁
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李瑁(李i)
続柄
玄宗第18皇子

全名李瑁(李i)
称号寿王
身位
敬称殿下
死去大暦10年正月8日
775年2月12日

配偶者楊玉環(後の楊貴妃
 韋氏(韋昭訓の娘)
子女李?
李?
李?
李伉
李傑
父親玄宗
母親武恵妃
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李 瑁(り ぼう)は、玄宗の第18子。武恵妃の子で、寿王に封じられた。太子に立てる運動が行われたが、立てられることはなかった。また、楊貴妃を妃としていたが、父に奪われたことで知られる。

古から伝わる史料によると一貫して李瑁と呼ばれていたが、近年発掘された寿王の娘の墓碑銘によると実名は李瑁ではなく李iであることが判明している。
経歴

初めの名は李清。母の武恵妃が開元元年(713年)から、玄宗の寵愛を得ていたが、子は全て夭折していた。そのため、李瑁が生まれた時には、玄宗の兄である寧王李憲の邸宅に預けられ、李憲の妃である元氏に育てられた。元氏が乳を与え、自分の子と語っていた。十数年間も寧王宅にいたため、王に封じられるのが遅かった。宮中では十八郎と呼ばれた。

もともと玄宗は、永王李?(李瑁の兄)たちが幼少であるころ、彼らの拝謁を認めていなかった。李瑁が7歳の時、兄たちと拝謁した。その時の拝舞(君主の前で喜びをあらわす礼)が儀礼にかなったものであったので、玄宗は彼をすぐれた才能であると認めたと伝えられる。

開元13年(725年)3月、寿王に封じられ、宮中に入る。開元15年(727年)、益州大都督・剣南節度大使を遙領する。

開元23年(735年)、開府儀同三司を加えられ、瑁と改名する。楊玉環(後の楊貴妃)を妃とする。この頃、武恵妃と李林甫が彼を太子とするため、運動を行う。

開元25年(737年)、太子であった李瑛が廃立されて自殺を命じられるが、同年、武恵妃が死去する。開元26年(738年)、李林甫の引き続きの運動にかかわらず、高力士の薦めにより、兄の李?が太子となる。

開元28年(740年)、妃である楊玉環が玄宗に見初められ、楊玉環は出家し、女道士となる。開元29年(741年)、寧王李憲が死去し、養育の恩に報いるため、その喪をおさめる。

天宝4載(745年)、韋昭訓の娘を妃とする[1]

至徳元載(756年)、安史の乱勃発後、玄宗がに出奔する際に同行する。この途上、怒りが爆発した陳玄礼や兵士たちによって、楊国忠らが殺される事件が起き、李瑁は兵士たちの慰撫を玄宗に命じられた[2]。また玄宗の命で、皇太子の李?に地元に留まるよう説得する役目を高力士とともに果たしている。その後も、玄宗を守る六軍の分割指揮にあたり、玄宗とともに蜀に赴いた。

大暦10年(775年)正月、死去し、太傅を贈られる。

子に徳陽郡王李?・済陽郡王李?・広陽郡王李?・薛国公李伉・李傑がいる。
脚注^ 同年、楊玉環は玄宗の貴妃に冊立されている。
^ この時、楊貴妃も自殺を命じられている。

伝記資料

旧唐書』巻百七 列伝第五十七「玄宗諸子伝・寿王瑁」

新唐書』巻八十二 列伝第七「十一宗諸子伝・寿王瑁」

資治通鑑


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