李 攀竜(り はんりゅう(ピン音:L? P?nLong)、正徳9年4月18日(1514年5月12日) - 隆慶4年8月19日(1570年9月18日))は、中国明代の詩人、文人。後七子
と称された明代詩壇の古文辞派の筆頭に挙げられる。歴城(山東省済南市)の出身。字は于鱗。号は滄溟。早くに父を失い、母の手で育てられた。嘉靖23年(1544年)進士となる。その後、陝西提学副使など地方官を歴任し、河南按察使となる。しかし、豪放ながらも自負心の強い性格であったため、官吏の世界になじめず、それ以上は出世しなかった。のちに職を辞して郷里歴城の郊外に隠棲し、母への孝養につとめた。母が他界すると悲嘆のあまり健康を害し、翌隆慶4年(1570年)に没した。 明代中期、15世紀後半の成化期に李東陽
詩人として
これらの動きを受けて李攀竜は擬古主義をさらに推進し、「文の前漢より、詩の天宝より下、倶に観るに足るものなし[1]」という持論を展開。盟友である王世貞もまた「文は必ず西漢、詩は必ず盛唐、大暦以後は書を読むことなかれ[2]」と称し、やや教条主義的に擬古文体を追求していった。両人は李王と称され、さらに同様の復古主義的な詩人である謝榛・宗臣・梁有誉・徐中行・呉国倫らをあわせ、前七子に対して「後七子」と称された。
李攀竜の作品はその主張の通り、秦漢の文体や盛唐の詩のつぎはぎ調が多く、後に李贄・袁宏道らが出て批判されるようになると、彼の詩文は先人の模倣に過ぎず、文学を堕落させたものとして激しく攻撃されることになる。しかし格調高い文体の追求に専念したこともあり、盛唐の詩に劣らぬ格調を持つ詩を残したのも確かである。
杪秋 太華山の絶頂に登る二首 其一
蒼龍半掛秦川雨蒼龍半ば掛かる 秦川の雨
石馬長嘶漢苑風石馬 長く嘶(いなな)く 漢苑の風
地敞中原秋色盡地は中原を敞いて秋色尽き
天開萬里夕陽空天は万里を開いて夕陽空し
歳杪放歌
終年著書一字無終年 書を著して一字無し
中歳學道仍狂夫中歳 道を学んで仍お狂夫
勸君高枕且自愛君に勧む 高枕 且に自ら愛すべし
勸君濁醪且自沽君に勧む 濁醪 且に自ら沽(か)うべし
何人不説宦遊樂何人か説わざる 宦遊は楽しと
如君棄官復不惡君の如く官を棄つるも復た悪しからず
何處不説有炎涼何れの処か説わざる 炎涼有りと
如君杜門復不妨君の如く門を杜すも復た妨げず
縱然疎拙非時調縱然(たとえ)疎拙にして時調に非るも
便是悠悠亦所長便(すなわ)ち是れ悠悠 亦た長ずる所なり
作品集には『李滄溟集』16巻がある。また古詩を選んで編纂した『古今詩刪』34巻など。また、唐代詩人の作品を集めた詩集として日本でもポピュラーな書である『唐詩選』も李攀竜によって編纂されたと言われている(異説もある。詳細は『唐詩選』の項を参照)。日本の江戸時代、荻生徂徠に始まる古文辞学派へ与えた影響も大きい。
伝記史料
『明史』巻287 李攀竜伝
『列朝詩集』丁集(銭謙益)
参考文献
『東洋歴史大辞典 下巻』(1941年、縮刷復刻版、臨川書店、ISBN 4653014728)1282ージ「李攀龍」(執筆:浅野忠允)
『アジア歴史事典 9』(平凡社、1984年)248ページ「李攀龍」(執筆:前野直彬)
関連項目
後七子
古文辞学
銭謙益
袁宏道
王世貞
中国文学
漢詩
^ 『明史』巻287 李攀竜伝。
^ 『明史』巻287 王世貞伝。
更新日時:2018年9月10日(月)15:36
取得日時:2019/08/06 13:11