李 恪(り かく、武徳2年(619年)- 永徽4年2月6日(653年3月10日))は、中国唐の太宗李世民の三男。呉王に立てられた。 李世民と楊妃
経歴
高宗の即位後、司空・梁州都督に任じられた。長孫無忌に忌避されて、永徽4年(653年)に房遺愛や高陽公主の謀反事件に連座して処刑された。顕慶5年(660年)、鬱林王に追封された。神龍初年、司空の位を追贈され、諸侯の礼で改葬された。 子に李仁・李?・李?・李?がいたが、李恪の処刑後にともに嶺南へ流刑となった。李恪が鬱林王に追封された後、李仁は鬱林県侯に封じられ、襄州刺史に任じられた。のちに李千里と改名し、唐州・廬州・許州・衛州・蒲州の刺史を歴任し、成王に封じられ、左金吾大将軍に上った。神龍3年(707年)、李重俊が武三思を殺して兵変を謀った事件に参加し、失敗の後に処刑された。 李?は早逝した。李?は、武則天のときに?州・衛州・宋州・鄭州・梁州・幽州の刺史を歴任した。李?は、帰政郡王に封じられ、宗正卿となり、李千里が処刑されると、南州司馬に左遷された。
子女
伝記資料
『旧唐書』巻76 列伝第26「呉王恪伝」
『新唐書』巻80 列伝第5「鬱林王恪伝」