李恢
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、三国時代の蜀の人物について説明しています。三国時代の魏の人物については「李義」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目に含まれる文字「恢」は、オペレーティングシステムブラウザなどの環境により表示が異なります。

李恢
蜀漢
漢興亭侯・?降都督・安漢将軍
出生生年不詳
益州建寧郡兪元県
死去建興9年(231年
益州漢中郡
?音L? Hu?
徳昂
主君劉璋劉備劉禅
テンプレートを表示

李 恢(り かい)は、中国後漢末期から三国時代の武将、政治家。は徳昂。益州建寧郡兪元県の人。子は李遺(または李蔚)。甥は李球。『三国志』蜀志に伝がある。
生涯

建寧郡の督郵を務めていた時、建伶県令であったおばの夫の爨習が罪を犯したため、連座して免職となりかけた。だが太守董和は、爨習が豪族出身であったことを理由に罪を許し、李恢の免職を認めなかった。その後、董和は李恢を州に推挙した。なお爨習は孟獲の反乱に同調したが、諸葛亮南方征伐を受けて帰順し、行参軍・偏将軍となり次いで領軍となって北伐にも加わっている。

ちょうどその頃、劉備劉璋を攻撃するために葭萌城から出陣した(劉備の入蜀)。李恢は劉備が勝利すると考え、郡の使者と称して綿竹に赴いて劉備と対面した。劉備は李恢を気に入ったので?城まで伴わせ、張魯の下にいた馬超を味方に引き入れるよう命じた。まもなく馬超は劉備に投降した。劉備が成都を降し益州を手に入れると、李恢は功曹書佐主簿に任じられた。

ある時、李恢は謀反の罪ありとして誣告されたが、劉備は事実無根であることを明らかにした上で、別駕従事に昇格させた。

章武元年(221年)、?降都督ケ方が死去した。誰を後任にすべきか劉備が李恢に問うと、李恢は「人間には長所と短所があり、それゆえ孔子は『人を用いるには、その能力に応じた使い方でなければならない』と申しております。そして、明主が上にあれば臣下は情を尽くします。このため、先零の役において趙充国は自分を推薦したのです」と答えた。劉備はこの返答を気に入り、李恢を?降都督・使持節・交州刺史とした。

建興元年(223年)に劉備が死去すると、南中で高定雍?朱褒が反乱を起こした。建興2年(224年)、諸葛亮は呉に使者を送って友好関係を回復させた上で、建興3年(225年)に自ら兵を率いて南中へ親征した(「後主伝」)。李恢は諸葛亮に従って南征に参加し、別働隊を任された。昆明で倍の兵に囲まれたが計略を用いて撃破し、逃げる敵を追って??郡まで至った。この功により、安漢将軍・漢興亭侯となった。

諸葛亮が去った後、南中では再び異民族の反乱が起き、雲南太守の呂凱が反乱軍に殺害されたため、李恢は兵を率いて反乱を鎮圧した。また、南中の有力者たちを成都に送り、牛馬・金銀などの貢物を納入させたので、一時的に軍事費は大いに潤った。

建興7年(229年)、交州はに従属したので、交州刺史を解任され建寧太守となった。その後漢中に移り、建興9年(231年)に死去した。
物語中の李恢

小説『三国志演義』では、馬超を降伏させた功績が大きく取り上げられており、弁舌の士として描かれている。

民間伝承では、李恢の子の李蔚(架空人物)が関索の妹(関羽の三女)を妻に迎えており、諸葛亮が李恢を派遣して南中へ進攻した際、李蔚夫婦は関索とともに先鋒となって反乱を平定している。










陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷

(魏書)

巻1 武帝紀

太祖武皇帝曹操

巻2 文帝紀

文皇帝曹丕

巻3 明帝紀

明皇帝曹叡

巻4 三少帝紀

斉王曹芳

高貴郷公曹髦

陳留王曹奐

巻5 后妃伝

武宣卞皇后

文昭甄皇后

文徳郭皇后

明悼毛皇后

明元郭皇后

巻6 董二袁劉伝

董卓

李?




袁紹

袁譚

袁尚


袁術

劉表

巻7 呂布臧洪伝

呂布

張?

陳登


臧洪

陳容


巻8 二公孫陶四張伝

公孫?

公孫度

公孫康

公孫恭

公孫淵


陶謙

張楊

張燕

張?

張魯

巻9 諸夏侯曹伝

夏侯惇

韓浩

史渙


夏侯淵

曹仁

曹純


曹洪

曹休

曹肇


曹真

曹爽

曹羲

曹訓

何晏

ケ?

丁謐

畢軌

李勝

桓範


夏侯尚

夏侯玄


巻10 荀ケ荀攸賈?伝

荀ケ

荀ツ

荀?(中国語版)

荀?(中国語版)


荀攸

賈?

巻11 袁張涼国田王?管伝

袁渙

張範

張承


涼茂

国淵

田疇

王修

?原

管寧

王烈

張?(中国語版)

胡昭


巻12 崔毛徐何?鮑司馬伝

崔?

毛?

徐奕

何?

??



司馬芝


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef