李寿_(成漢)
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昭文帝 李寿
成漢
第4代皇帝
王朝成漢
在位期間
338年 - 343年
姓・諱李寿
字武考
諡号昭文帝
廟号中宗
生年永康元年(300年
没年漢興6年(343年)8月
李驤
后妃閻皇后
陵墓安昌陵
年号漢興 : 338年 - 343年

李 寿(り じゅ)は、五胡十六国成漢の第4代皇帝は武考。父は建国の功臣である李驤
生涯
李雄の時代

建興元年(304年)11月、西晋の益州刺史羅尚が兵を派遣して蜀の中部へ侵攻すると、李寿は母の?氏と共に捕らえられているが、どうやって解放されたのかは記されていない[1]

李寿は聡明で鋭敏であり、学問を好んだ。若い頃から礼節をわきまえており、他の皇族の子らとは一線を画していた。李雄はその才能を見てただ者では無いと感じ、重責を荷うに足る人物であると称えた。

玉衡8年(318年)、父の李驤が梁州刺史李鳳の反乱を平定すると、功績により李寿は前将軍・都督巴西諸軍事に任じられた。その後、征東将軍に移った。李寿は在野の士である?秀を賓客として招聘し、その献策に従って巴西を良く治めたので、その威恵は大いに奮った。

玉衡13年(323年)、李寿は李?と共に陰平を攻撃したが、仇池楊難敵に進軍を阻まれた。

玉衡18年(328年)冬、李驤が亡くなると、李寿は大将軍・西夷校尉に任じられた。その後、さらに大都督侍中を加えられ、扶風公に封じられた。

玉衡20年(330年)10月、李寿は征南将軍費黒と征東将軍任巳を従えて巴東攻略に向かい、これを陥落させて東晋の巴東郡太守楊謙建平まで退却させた。李寿はさらに費黒に別軍を与えて建平を攻撃させ、東晋の巴東監軍?丘奥宜都まで撤退させた。

玉衡21年(331年)7月、陰平・武都を攻撃したが、楊難敵に阻まれた。

玉衡22年(332年)、李寿は費黒と邵攀を前鋒として朱提を攻撃し、鎮南将軍任回には木落を攻撃させた。李寿は100日余りを掛けて寧州へ侵攻し、諸郡を尽く平定した。玉衡23年(333年)3月、東晋の寧州刺史尹奉は降伏し、李寿は南中の地を併呑した。李雄は大いに喜び、李寿は功績により建寧王に封じられた。

李寿は士人を愛して善行を行い、書物を学んで古の良将や賢相の事績を暗誦する事が出来た。征伐を行なえば勝利を重ねて国土を千里広げ、誠実に李雄に仕えて賢相であると称賛された。
李班・李期の時代

玉衡24年(334年)6月、李雄が崩御すると李班が皇位を継承した。遺詔により李寿は録尚書事に任じられ、李班の輔政を命じられた。

10月、李越により李班が殺害されると、李期が皇位を継承した。李寿は漢王に改封され、大都督・東羌校尉・中護軍・録尚書事に任じられた。従兄弟の李始は李寿と結託して李期を討とうと考えたが、李寿は応じなかった。

その後、李期の命により、李寿は李班の弟である李?討伐の為に?城へ向かった。だが、李寿は李?を哀れに思い、開戦の前に李?へ書状を送って利害を説き、包囲の一か所をあえて開けておいた。李?はそこから逃亡し、東晋へ亡命した。李寿は李?に代わって?城を鎮守し、梁州刺史に任じられて梁州5郡が食邑として与えられた。

その後、李寿は漢中に駐屯する東晋の建威将軍司馬勲を攻撃し、これを討ち破って漢中を陥落させ、守宰を置いて南鄭を守った。

李寿の威名は遠方にまで轟くようになったので、朝廷の重臣である李越や景騫らに警戒されるようになった。李期の兄弟10人余りはみな強力な兵を擁していたので、李寿はこれを深く憂慮し、入朝の時期が来る度に外敵に備えるのを名目として成都へ赴かなかった。李期は李寿の養弟である安北将軍李攸を毒殺すると、李越・景騫・田褒・姚華らと李寿の襲撃を企てた。また、幾度も中常侍許?を李寿の下へ派遣し、李寿の動向を覗った。李攸が殺害されると聞くと李寿は大いに恐れ、さらに許?がしばしば往来していた事から警戒を強めた。

ある時、李寿は巴西?壮という人物の下を礼を尽くして訪問すると、?壮は招聘には応じなかったが、しばしば李寿の下を訪れるようになった。この時期、岷山が崩れたり長江が干上がるなど不吉な事が続いたので、李寿は気味悪く思って?壮に保身の術を問うた。?壮はかつて李特により父と叔父が殺されていたので、李寿の力で仇を討とうと考え、挙兵して成都を攻め落とすよう勧めた。李寿はこれに従い、密かに長史羅恒・解思明と共に謀議し、成都を掌握して東晋へ帰順しようと考えた。

玉恒4年(338年)、李寿は文武百官と誓約を交わして数千人の賛同を得ると、歩兵・騎兵併せて1万を率いて?城から成都へと進軍し、李奕を先鋒とした。李寿は景騫や田褒が朝政を乱している事から、兵を起こして李期の側に侍る奸賊を除くのだと喧伝した。李寿が成都に到来すると、李期と李越はこれを全く予想しておらず、何の備えもしていなかった。李寿の世子李勢は内で呼応して城門を開いて李寿を迎え入れた。李寿は成都城を制圧すると、宮門には兵を配置した。この時、配下の兵に略奪を許したので、李雄の娘や皇族の女が攫われ、多くの者が殺害された。この混乱は数日続いたという。

李期は侍中を派遣して慰労したが、李寿は相国建寧王李越・尚書令河南公景騫・尚書田褒・姚華・中常侍許?・征西将軍李遐・将軍李西らが皆姦佞であり、政事を乱して社稷を傾けようと謀っているから、大逆不道の罪によって夷滅するようにと上奏した。李期はこれを拒む術を知らず、李越や景騫らを殺害した。さらに、李寿は任皇太后の命だと偽り、李期を廃して?都県公に落とし、別宮に幽閉した。
皇帝即位

羅恒・解思明・李奕・王利らは李寿へ鎮西将軍・益州牧・成都王を称して東晋へ称藩するよう進言したが、逆に任調・司馬蔡興・侍中李艶・張烈らは李寿へ自立する様勧めた。李寿がこれを占った所、占い師は「天子となれるのは数年の間だけでしょう」と告げた。任調は「一日でも十分なのに、数年も天子でいることができますぞ」と喜び、解思明は「数年間だけの天子の位と百世代に渡る諸侯の地位では、どちらが良いと思いますか」と諫めた。李寿は「朝に道を聞けば夕に死す事もある時世なのだ。任侯の言こそが上策であろう」と言った。

こうして帝位に即くと、領内に大赦を下し、漢興と改元し、さらに国号を『大成』から『漢』に改めた。


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