李富春
[Wikipedia|▼Menu]

中華人民共和国政治家李富春

生年月日1900年5月22日
出生地 湖南省長沙市
没年月日1975年1月9日
死没地 北京市
所属政党 中国共産党
配偶者蔡暢
国務院副総理
内閣周恩来内閣
在任期間1954年9月27日 - 1975年1月9日
国家主席毛沢東
劉少奇
テンプレートを表示

李富春(り ふしゅん、リー・フーチュン、1900年5月22日 - 1975年1月9日)は中華人民共和国の政治家。党務では中央書記処書記、中央政治局常務委員会委員を歴任。中央政府においては国務院副総理国家計画委員会主任を歴任。夫人は、中華全国婦女連合会主席を務めた蔡暢である[1]
経歴
留仏勤工倹学、中国共産党入党

1900年5月22日、湖南省長沙に生まれる。長沙では幼少期と学生時代をすごし、長郡中学から1919年に毛沢東らが組織した苦学生(留仏勤工倹学運動(中国語版)[2])の一員としてフランスに渡る[1][3]クランプ工や列車運転手として働き、小説『あるフランス兵の告白』を書いた。また、『フランス・アーヴルのシュナイダー工場における中国人労働者の実態』と題する調査報告書を発表し、1920年8月には李維漢(中国語版)らとともに、「社会革命を目指す」ことを掲げ、設立に尽力した勤労倹約学会を世界工学会と改称し、多くの政治闘争に参加した[4]。1922年6月、在欧中国青年共産党(中国語版)の設立を発起してノルマンディー支部の書記となった。1922年に中国共産党パリ支部にて中国共産党に加入し[1]、1923年2月、在欧中国青年共産党の名称が正式に在欧中国共産主義青年団に変更された。同年8月から、中国共産主義青年団欧州執行委員会委員、学生運動委員会主任、書記局員、執行委員会主席を務めた[5]。1923年6月、中国国民党に入党し、同年11月、国民党欧州支部執行部宣伝責任者となり、「国民党の新しい仕事」と題する論文を発表した。同年、ケ小平の立会いのもと、蔡暢と結婚した[6]

1925年1月にソビエト連邦に渡り、東方勤労者共産大学で学び、同年、中国に帰国。
中国国民革命軍の北伐期

1926年、国民革命軍第二軍(中国語版)における党副代表兼政治部主任および軍事法務官、として北伐に従軍した[7]。1927年3月、この北伐の途上の南京で、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃する南京事件が起こり、後にこれを理由に国民党政府から指名手配された。
第一次国共内戦の時期

1927年の国共分裂後、上海香港で地下活動に従事、江蘇省党委員会宣伝部長、江蘇省委員会代理書記、上海法南区委員会書記、広東省委員会宣伝部長、広東省委員会代理書記を歴任[8]

第一次国共内戦期には、中国共産党江西省委員会書記代行、紅軍総政治部長代行、中国共産党中央西満分局書記、中国共産党中央東北局常務委員、副書記、東北人民政府副主席、東北軍区副政治委員を歴任。1931年に中国共産党の革命根拠地のひとつである江西省の中央革命根拠地(中国語版)に入り、中共江西省委員会代理書記を務める。

その後反包囲討伐戦争(中国語版)[9]を戦い抜き、1934年9月、紅軍総政治部(中国語版)副主任、主任代理を務め[10]、1934年10月からの長征に参加。長征途上の1935年1月に開催された遵義会議に出席[11]。以後、中国労農紅軍第一方面軍(中国語版)政治部主任、中国労農紅軍第三軍団(中国語版)政治委員[12]陝西甘粛支隊第二縱隊政治委員[13]。この間、張国Zが中央軍から相当数の兵力を維持して分裂し、中共中央を自称して南下するという事態に反対し、軍を率いて陝西北部に到着した。1936年5月に延安に到達後は陝甘寧辺区党委員会書記となる[14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:46 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef