李宸妃
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李妃
北宋の追贈皇后

別称章懿皇后
出生雍熙4年(987年
杭州銭塘県
死去明道元年2月26日[1]
1032年4月8日
開封府
配偶者真宗
子女仁宗恵国公主
父親李仁徳
母親越国陳国太夫人董氏
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宸妃李氏(しんひ りし)は、北宋の第3代皇帝真宗の側室。仁宗の実母で、章懿皇后(しょういこうごう)の諡号が贈られた。
経歴

杭州銭塘県の人。庶民の李仁徳と妻の董氏の間の娘。最初は尼僧となったが、後宮に入って美人劉氏(後の章献皇后)の侍女となった。寡黙にして荘重な性格だったという。真宗と関係して趙禎(後の仁宗)を産んだが、真宗の許可で子は奪われて劉氏の子とされた。他の后妃が産んだ5人の男子はみな早世していたため、その太子を生んだ「功績」により、劉氏は皇后に昇進した。李氏は身分低い妃嬪にして崇陽県君[2]に封ぜられた。その後公主を産んで、大中祥符9年(1016年)2月に才人となり、天禧2年(1018年)9月に婉儀(従一品嬪)にいたった。

真宗が崩ずると、順容(従一品嬪)に進封され、園陵の奉仕にあたった。明道元年(1032年)、病が重くなり、宸妃の位に進められて、まもなく2月に死去した。翌年、皇太后劉氏も崩じると、仁宗ははじめて李宸妃が実母であったことを知り、深く哀悼した。李宸妃は皇太后として追尊され、荘懿とされた。慶暦4年(1044年)11月、夫の諡を重ねて「章懿」と改諡された。

その後、仁宗は実母を哀れに思い、自身の長女の福康公主(荘孝帝姫)を李宸妃の甥(弟の李用和(中国語版)の次男で、仁宗の従弟)の李?に降嫁させた。しかし夫婦仲が悪く、結局離婚した。
子女

趙禎(
仁宗

恵国公主(静一帝姫

史跡

中華民国(台湾)
彰化県の慶安宮:李宸妃が娘娘として祀られている。

話本と京劇における李宸妃

「狸猫換太子」の故事の女主人公と言える。

脚注^ 『宋会要輯稿』巻12, 后妃一 章懿李太后の項より。
^ 宋代の制度では、4妃(正一品)、18嬪(上嬪従一品、下嬪正二品)、世婦(?、、美人、才人。正三品から正五品)、国夫人、郡君(郡夫人)、県君(夫人)、側女ら(紅霞?など)

伝記資料

宋史』巻242 后妃伝上 李宸妃伝

『宋会要輯稿』巻12 后妃一 章懿李太后










の皇后
北宋

昭憲杜太后* / 孝恵賀皇后* / 孝明王皇后 / 孝章宋皇后 / 淑徳尹皇后* / 懿徳符皇后* / 明徳李皇后 / 元徳李皇后* / 章懐潘皇后* / 章穆郭皇后 / 章献劉皇后 / 章懿李太后* / 章恵楊太后* / 仁宗郭皇后 / 慈聖曹皇后 / 温成張皇后* / 仁宗張皇后* / 宣仁高皇后 / 欽聖向皇后 / 欽成朱皇后* / 欽慈陳太后* / 昭慈孟皇后 / 昭懐劉皇后 / 顕恭王皇后 / 顕粛鄭皇后 / 明達劉皇后* / 明節劉皇后* / 顕仁韋皇后* / 仁懐朱皇后
南宋

憲節?皇后 / 憲聖呉皇后 / 成穆郭皇后* / 成恭夏皇后 / 成粛謝皇后 / 慈懿李皇后 / 恭淑韓皇后 / 恭聖楊皇后 / 寿和謝皇后 / 度宗全皇后
*:追封皇后


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