李完用
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李 完用
内閣総理大臣
李完用(1910年、『朝鮮貴族列傳』より)
本貫氏派牛峰李氏
誕生年咸豊6年6月7日1856年7月17日
誕生地 朝鮮国京畿道広州郡楽生面柏?里(現・京畿道城南市盆唐区
没死大正15年(1926年2月12日
没死地 日本統治下朝鮮京畿道京城府
埋葬地全羅北道益山郡朗山面
配偶者趙秉翼の娘
子女李升九、李恒九

李完用
各種表記
ハングル:???(南)
???(北)
漢字:李完用
発音:イ・ワニョン(南)
リ・ワニョン(北)
日本語読み:り かんよう
ローマ字:I Wanyong
Ri Wanyong
英語:Ye Wanyong
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李 完用(り かんよう、イ・ワニョン、リ・ワニョン、???、???、1856年7月17日(旧暦咸豊6年6月7日) - 1926年2月12日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家勲等大勲位爵位侯爵大韓帝国内閣総理大臣大日本帝国朝鮮総督府中枢院副議長などを歴任した。甥に韓相龍
生涯

京畿道広州郡楽生面柏?里(現・城南市盆唐区)に生まれた[1]光緒9年(1883年)に科挙に合格し、光緒13年(1887年)からアメリカ合衆国で3年間の海外勤務を経験した後、国際派の政治家として頭角を現す。

開国504年(1895年)の閔妃暗殺事件(乙未事変)の後、同年11月28日に、大院君派の政権打倒の為のクーデターを親露派、親米派勢力の李範晋、李学均、李允用などと画策するが失敗に終わり、在米公館に逃げ込む。建陽元年(1896年)に高宗ロシア公館に逃げ込む露館播遷を成功させ、金弘集政権を瓦解させた後に外部大臣(外務大臣)に就任した。

翌年には学部大臣(文部大臣)になるが、ロシア公使ウェーベルと対立し、地方に転出された。光武5年(1901年)には中央に戻り、親米派の立場をとって親日勢力を圧迫するが、光武8年(1904年)の日露戦争を境に日本寄りの態度を取るようになる。

光武9年(1905年)、学部大臣だった李完用は第二次日韓協約の調印に賛成し、これを推進した。これに賛同した5大臣は反対派により乙巳五賊に数えられている。

光武11年(1907年)、韓国統監伊藤博文の推薦により内閣総理大臣に就任[2]。同年6月の高宗が起こしたハーグ密使事件に際しては日本側に立って退位を進めた。これを推進した7大臣は後に丁未七賊に数えられている。高宗は伊藤博文に「大臣しきりに朕に譲位を進めて止まず、総督の意いかに」と質問し、伊藤は「外臣たる統監は貴皇族の事に関して、断じて喙を容るる(口をはさむ)権利も義務も持っておりませぬ」と確答して余事を述べずに退出し、高宗は退位した。また第三次日韓協約の成立にも重要な役割を担った[3]。その後徳寿宮での純宗の陳賀式に出席している際に自邸が焼き討ちを受け、李完用は「この位の事はかねがね覚悟している。古い家が焼ければ、新しい家を作れるが、ただ無益の騒動で、尊い人命を殺傷するのがいかにも残念だ」と述べた[4]

隆熙3年(1909年)12月22日、明治町のフランス教会である明洞聖堂でベルギー国王レオポルド2世崩御の哀悼ミサに参列した際、警官に護衛されて帰る時に、キリスト教徒であり、反対勢力が送り込んだ刺客の李在明に襲われた。李完用は人力車上にあり、飛び乗った暴漢にまず左肩部を刺され、驚いて降りてさらに腰部を刺された。最初の一撃は肺に達するほどの深手で、次も腎臓を損傷する重傷であったが、大韓医院院長菊池常三郎の処置で奇跡的に一命をとりとめた。

日韓併合問題が迫ると離職休養を望んだが、後継を朴斉純(内部大臣)と趙重応(農商工部大臣)が拒否したため、引き続き留任。

隆熙4年(1910年)8月13日に韓国統監寺内正毅から韓国併合の内容を伝えられた場で、李完用は大体の内容を承諾したが「旧例に従い韓帝を大公ではなく王と称し、また韓国を朝鮮という旧称にあらためること。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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