李大永
生誕1889年8月20日
朝鮮国漢城府
死没 (1976-03-01) 1976年3月1日(86歳没)
大韓民国
所属組織 大日本帝国陸軍
大韓民国陸軍
最終階級少佐(日本陸軍)
准将(韓国陸軍)
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李 大永(イ・デヨン、???)は大日本帝国陸軍及び大韓民国陸軍の軍人。幼名は李昊永(???)。創氏改名による日本名は海東孝朋。徳水李氏。李舜臣の後裔[1]。息子は海軍中将・援護処長(現大韓民国国家報勲処)・大韓民国海洋連盟総裁の李種浩
[2][3]。1889年8月、漢城府に生まれる。大韓帝国武官学校
(朝鮮語版)入学。在学中に日本の中央幼年学校予科3年に留学[1]。同校卒業後、丸亀歩兵第12連隊附士官候補生となり、1914年、陸軍士官学校第26期卒業。以降歩兵第12連隊附を12年間続ける[4]。1918年7月29日、歩兵中尉[5]。1921年、シベリア出兵に派遣され、約1年間ニコリスクで守備隊長として侵略と馬賊討伐に従事した[6]。1925年3月18日、歩兵大尉[7]。同年9月22日、歩兵第73連隊大隊副官[8]。
1927年1月29日、歩兵第73連隊中隊長[9]。
1928年9月21日、歩兵第73連隊附[10]。
1930年9月から10月まで昭和5年国勢調査陸軍調査員として活動[6]。
1931年9月14日、歩兵第73連隊大隊副官[5]。
1934年3月5日、任歩兵少佐、歩兵第75連隊附[7]。同年、朝鮮軍司令部附[11]。後に
1937年から1939年頃まで現役少佐身分で京城府総務部内務課防空係嘱託として勤務[12]。
1937年8月、京畿道江華を訪問して戦時下防空防諜意識の強化と総力体制の確立を主題に講演、同月に京城府高等普通学校父兄会に出席し、毎日新報社が制作した日中戦争関連の毎新ニュースを上映した後に時局講演をした[12]。
1938年7月、京城軍事後援連盟が主催した北支事変記念1周年講演に朝鮮軍司令部報道部の鄭勲少佐などと共に出席し、日本の侵略戦争に対する協力と朝鮮人の兵力動員を宣伝・扇動した。また同年8月には親日団体である同民会が主催した婦人講習会で「非常時局の精神作興と心田開発」を主題に講演した[12]。
1939年11月、第2回陸軍兵志願者301名退所式に参加[12]。
1940年から1943年頃に京城府陸軍兵志願者後援会、1943年11月には臨時特別志願兵制度鍾路翼賛委員会に参加し、朝鮮人青年と学生を対象に志願兵として出ることを宣伝扇動した[12]。
1940年3月、京城の半島ホテルで京城府尹と京畿道警察部長が招集された会議に出席し、゙秉相と共に志願兵後援会の基金を30万円募集しようと提案したが、京城府尹の反対によって10万円に決定された。同年5月、京城府陸軍志願兵後援会の主催で15日から22日まで朝鮮ホテルで開かれた警察署管轄地域別有志懇談会に現役少佐として参加し、最初に志願兵の趣旨を一般に徹底して認識させること、第二に志願兵を精誠に不自由がないように後援するために1日あたり最低500円以上の寄付金を集めて20万円以上の事業基金を作ることを全会一致で決議した。同月、尹致昊、゙秉相、朴勝武、朴勝城などと共に退所を控えた志願兵訓練所訓練兵と士官達に盛大な晩餐を施して訓練兵に記念品を伝達した[12]。
1941年1月、京城府民館で国民総力朝鮮連盟が主催し、京城府陸軍兵志願者後援会が後援する「陸軍特別志願兵趣旨普及講演」に陸軍少佐兼京城府陸軍兵志願者後援会常任理事として参加し、1800名の市内学生を集めて「志願兵と後援会」という題目で講演した[12]。
『三千里』1941年12月号の「出征と東京陸軍士官学校時代回想」という対談を通じて、朝鮮青年たちはすべからく大亜細亜の建設の礎石となり、さらに世界新秩序の建設に貢献するため、尚武精神を把握しなければならないだろうと主張した[12]。
1942年10月、名門の家庭から率先して志願兵を出すための実践方法を協議するため、府民館に京城府陸軍兵志願者後援会主催で開かれた懇談会に参加し、1943年度志願兵募集を議論し、日本現地の徴兵制実施について説明を受けた[12]。