李?
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李?
宗親十世
義王
李?
本貫氏派全州李氏
初諱李平吉
雅号晩悟
爵号義和公→義和君→義王→公
出生年光3年2月16日( (1877-03-30) 1877年3月30日
出生地 李氏朝鮮漢城府
没死年 (1955-08-17) 1955年8月17日(78歳没)
没死地 韓国ソウル特別市
現墓所洪陵・裕陵隷下の義親王墓
実父高宗
実母貴人張氏
配偶者金修コ、他
子女下記参照
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李?
各種表記
ハングル:??
漢字:李?
発音:イ ガン
日本語読み:り こう
ローマ字:I Gang
英語:Yi Kang
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李 ?(り こう、朝鮮語: ??〈イ・ガン〉、1877年3月30日 - 1955年8月16日)は、大韓帝国の皇族(王)、のち大日本帝国公族朝鮮第26代国王・大韓帝国初代皇帝高宗の五男。
生涯
韓国併合以前

朝鮮国王高宗の五男として誕生する。母は貴人張氏(出産当時は承恩尚宮だった)。異母兄に純宗、異母弟に皇太子・李王となった李垠がいる。幼名は平吉(ピョンギル)[1]。朝鮮王朝の慣例では、国王の庶子は世子が10歳になるまで宮中に入ることはできなかったため、哲宗の女婿朴泳孝のもとで育てられた[1]。その後も興宣大院君の反対でなかなか王子として認知されず、庶民的な生活を強いられた[2]。素行は荒れ、市中の無頼とも付き合うようになったという[2]

数え年16歳となった1892年の1月28日にようやく義和君の称号を与えられ、宮中に伺候できるようになった[2]。翌1893年に金思濬の娘と結婚する。1894年に日清戦争の祝賀使として日本に訪問した。1895年8月にはヨーロッパに対する特派大使に任じられていたが、10月2日に依願免官していた。10月8日に乙未事変が発生すると、翌日李?はアメリカ人宣教師の家に避難した。10月13日には再び特派大使に任じられ、10月27日に日本に向けて出国した[2]。父の高宗によれば、李?は閔妃を殺したのは大院君の一家の陰謀によるものだと考えており、大院君一家への陰謀を企てていたのが露見したためであったという[2]。朝鮮政府は帰国を命じたが、李?は勅命でなければ応じないと抵抗し、大使の任を解かれて留学生の身分で日本に滞在することとなった[3]

日本での李?の生活は模範的なものではなく、朝鮮の伝統的な服装で訪問した朝鮮の官僚の髷をいきなり切り落とすという行動に出ることもあった[4]。1896年1月26日には高宗の依頼で福沢諭吉が監督役となったが、夜遊びや散財を繰り返すなどその生活は改まることなく、アメリカ留学が命じられた[4]

1897年5月22日に日本を出国し、翌年に一旦帰国して再度渡米した。1900年に朝鮮は大韓帝国となり、義王に封じられた[5]。さらに1901年にはロアノーク大学に入学した。アメリカでも3人の女性との恋愛沙汰が報じられ、1903年3月1日には「アメリカ人の自由とアメリカの独立に魅了され、祖国の王冠を放棄する」という声明を『ニューヨーク・ヘラルド』紙に公表した[6]

1905年2月には日本に戻ったが、高宗はアメリカ留学中の評判が極めて悪かったことから、伊藤博文井上馨の監督でもう3?4年留学させられないかと要請している[5]。1906年4月に帰国し、大韓帝国最高位の勲章である大勲位金尺大綬章が授与された。翌年に兄の純宗が即位した際も、皇太子には任ぜられなかった。

韓国併合により1910年8月、「公」位を受けて恩賜公債84万円を賜り、日本の公族の身分となった。李?家は、併合前の財産と恩賜公債の利子、慶尚南道咸鏡南道の漁業権を貸与することで年間4万円の収入があったが、用途については李王職が監督を行っていた。李?はそれに反発し李王職の干渉を廃するよう要求している[7]。一方で李?は李王職の承諾を得ないまま借金をして遊興費に当てる、漁業権の二重貸与で手付金を騙し取るなどの行為を行っていた[7]。また屋敷に妓生を呼んで宴会を行ったり、気に入らない事務官に銃口を向けて威嚇するなど乱行が目立った[7]

1914年には李王職が李?の品行を是正するための協議を行ったが、李完用らは李王職の日本人官吏が考えた手ぬるい方法では公家は破産すると反発し、公家の財産を保全するためには李?を隠居させるしか方策がないと結論づけた。ところが当時、王公族には隠居の法的根拠がなく、民法の規定である満60歳に達していない李?を隠居させることはできなかった[8]。また兄の李王が王家の祭祀を代行するよう頼んでも病気と称して拒絶し、王家の行事についてもたびたび欠席した[9]。一方で皇室の行事には積極的に参加した[9]明治天皇が崩御した際は、王公族の中でただひとり、一年間喪服と喪章をつけて喪に服していたという[9]

1919年11月、朝鮮独立運動組織「大同団(朝鮮語版)」が李?に「金は出すから、朝鮮から出て独立運動の象徴となってほしい」と彼を騙し、上海に拉致しようとした[9]。李?は国境付近の中国安東県で保護されたが、特に処分などは行われなかった[9]。しかし監視が厳しくなったことには耐えられず、一ヶ月後には生活が保証されるのであれば公の身分を捨てて平民になりたいと朝鮮総督府に要望し、1925年5月15日には摂政宮裕仁親王に同様の趣旨を述べた陳情書を提出している[10]。李王職と李王は始末書を書かせてことを収めようとするが、李?は不満を漏らしてこれを受け入れなかった。12月4日には朝鮮総督府に呼び出され、陳情書を取り下げるよう促された。この時李?は素直に非を認め、陳情書の取り下げに応じている[10]

一方で私生活の乱行も収まらず、1925年頃には7名の妾のために毎年9200円の支出を行い、1927年には李王家から8万円の経費を支出してもらうことでようやく家政を維持する有様であった[11]


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