杉浦茂
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この項目では、漫画家について記述しています。オウム真理教の幹部の同名の人物については「杉浦茂 (オウム真理教)」をご覧ください。

本名が「杉浦茂」の政治家の「杉柾夫」とは別人です。

杉浦 茂
本名杉浦 茂
生誕1908年4月3日
日本東京府東京市本郷区湯島新花町(現・東京都文京区湯島 2丁目)
死没 (2000-04-23) 2000年4月23日(92歳没)
日本
国籍 日本
職業漫画家
活動期間1932年 - 1996年
ジャンル子供漫画
ギャグ漫画
代表作猿飛佐助
受賞1989年 - 第29回児童文化功労者
公式サイト ⇒杉浦茂記念祭 公式ウェブサイト (日本語)
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杉浦 茂(すぎうら しげる、1908年4月3日[注釈 1][1] - 2000年4月23日)は、日本漫画家である。東京府東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区湯島二丁目)生まれ。戦前はユーモア漫画や教育漫画を多く描いたが、戦後に手掛けた多くの独特でナンセンスなギャグ漫画は熱狂的な人気を呼び、88歳まで執筆活動を続けた。初期の筆名に杉浦シゲルがある。
年表

1908年明治41年)4月3日 - 生誕。

1926年大正15年) - 1930年(昭和5年) - 18歳から22歳まで太平洋画会研究所入所。

1930年昭和5年) - 22歳。『夏の帝大』で第11回帝展(現日展)洋画部入選。

1932年(昭和7年) - 24歳。田河水泡に師事。作品『どうも近ごろ物騒でいけねえ』が東京朝日新聞に載り、漫画家デビュー

1943年(昭和18年) - 35歳。茂原映画研究所に就職。

1945年(昭和20年)7月 - 37歳。召集令状が届き、世田谷砲兵連隊に配属され、熊本県に駐屯。

1945年(昭和20年)9月下旬 - 復員。

1953年(昭和28年) - 1958年(昭和33年) - 46歳から50歳まで、杉浦茂の5年間の黄金期。

1954年(昭和29年) - 46歳。斉藤あきらが杉浦に入門。

1958年(昭和33年) - 50歳。約半年間療養。

1996年平成8年) - 88歳。遺作となる『2901年宇宙の旅』執筆。

2000年(平成12年)4月23日 - 92歳。歿

生涯

杉浦の創作活動は3期に分けられる[2]。戦前の第1期ではユーモア漫画や教育漫画を、徴兵を挟んで終戦の翌年からの第2期では、一転してナンセンスな子供向け漫画を多く手掛けた。この時期のうち、1953年から1958年までは、その殺人的な仕事量と、多くの代表作が生み出されたことから「杉浦茂の黄金期」とされ、「奇跡の5年間」とも表される[3]。その後、仕事の休止を挟んで1968年からの第三期では、シュールレアリスムを思わせる奔放な漫画を描き、サブカルチャーブームにも乗ってイラスト仕事も行った。
生い立ち

1908年(明治41年)、東京市本郷区湯島に開業医の三男として生まれる。湯島尋常小学校(今の文京区立湯島小学校)時代は友人に恵まれ、押川春浪から田山花袋上田秋成などの多様な小説や、『猿飛佐助』を初めとする立川文庫(立川文明堂刊)などで講談趣味を教わった。また、週末には本郷の第五福宝館や、長じてからは新宿武蔵野館などの映画館に通い、アメリカ製の喜劇物や西部劇などをたびたび鑑賞した。20歳ごろからは兄が定期購読していた『新青年』(博文館発行)にも親しみ[4]、これらの文物が後の漫画創作の下地となった[5]

郁文館中学校(旧制・現在の郁文館中学校・高等学校)時代に[6][7]、当時の人気漫画家北沢楽天とその一門に影響され、初めての漫画(ポンチ絵)を描く。餠を題材にした四ページほどのこの滑稽なコマ漫画は、後の漫画家人生の原点になった[8]。しかし、その後も継続して漫画を描いていたわけではなく、杉浦によると、漫画家になるまでは漫画への興味、知識は特に無かったという[9]。父親は杉浦を眼科医にさせたかったが[10]、杉浦の夢はプロの西洋画家になることであった。中学時代に上級生から教えられた藤田嗣治に憧れ[11]、また、趣味で日本画を描いていた父と文展(文部省美術展覧会、後の帝展、日展)に通うことで、その思いを募らせた[6]

1924年(大正13年)、父が、過労によって当時流行していた嗜眠性脳炎(眠り病)を患い急死[12]。二人の兄が医学校に進学したこともあって家計が悪化し、杉浦は美術学校(芸大)への進学の道を絶たれる。その後、医者になった兄の金銭援助を受け[13]、1926年から1930年まで太平洋画会研究所[注釈 2]に入所。西洋画の制作に取り組む。人物画のモデルを雇うには金がかかるいうこともあり、杉浦は、好んで西洋建築のある風景画を描いた[注釈 3][14]。外出して写生をしている内に、野獣派長谷川利行横山潤之助と知り合うことにもなった[15]。また、研究所とは別に1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)まで洋画家の高橋虎之助にも師事。1930年には、日展(日本美術展覧会)の前身である第11回帝展(帝国美術展覧会)洋画部に、油彩(50号)の風景画『夏の帝大』で入選している[注釈 4]
漫画家へ(第一期)

全ての生活の糧を二人の兄に頼っていた杉浦は、一念発起して洋画家とは別の道を目指すことにする。知人から田河水泡への紹介状をもらい、その後3カ月、勝手の分らない漫画家の道を目指すかどうか悩んだ末、1932年(昭和7年)4月1日、小石川の高級アパート・久世山ハウスを訪ね、田河の門下となった。田河はこの時、すでに『のらくろ』により売れっ子作家となっており、杉浦もその名前は知っていた[注釈 5]。入門の数日後には、山梨から上京してきた倉金虎雄(後の倉金章介)も門下になり、それまで弟子がいなかった田河に、二人の門下生ができた[注釈 6]。田河の妻、高見澤潤子によれば、「弟子と言えば、杉浦茂が一番弟子であり、荻窪の家へはときどき訪ねて来て、倉金章介やその他の若い人たちと、よくいっしょにあつまっていたが、その後は、あまり家に来なくなった。」という[16]。ただし、杉浦は戦後の1947年にも、その頃荻窪にあった田河の家を訪れており、親交が全く途絶えたわけではなかった[17]

田河は「制作環境に接していれば漫画は自然と分るものだ」という考えから、指導を特に行わなかった[18][19]。杉浦は、倉金とともに原稿のベタ塗りなどを手伝いつつ、東京朝日新聞(1932年12月18日付)に一枚ものの『どうも近ごろ物騒でいけねえ』を執筆、デビューを果たす[20]。その後もいくつかの短中篇作品が少年誌に掲載された。しかし、杉浦はネタの引出しが少なく、苦肉の策として別の雑誌に同じネタを使い回すこともあり[21]、この傾向はその後も続いた[22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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