杉浦忠
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紙芝居師の「杉浦貞」とは別人です。

杉浦 忠『週刊野球』1959年6月24日号表紙
基本情報
国籍 日本
出身地愛知県西加茂郡挙母町(現:豊田市若宮町[1]
生年月日 (1935-09-17) 1935年9月17日
没年月日 (2001-11-11) 2001年11月11日(66歳没)
身長
体重176 cm
71 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1958年
初出場1958年4月5日
最終出場1970年10月10日
1971年3月25日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


愛知県立挙母高等学校

立教大学

南海ホークス (1958 - 1970)

監督・コーチ歴


南海ホークス(1966 - 1967)

近鉄バファローズ (1974 - 1977)

南海ホークス
福岡ダイエーホークス (1986 - 1989)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1995年
選出方法競技者表彰
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

杉浦 忠(すぎうら ただし、1935年昭和10年〉9月17日 - 2001年平成13年〉11月11日)は、愛知県西加茂郡挙母町(現:豊田市若宮町)出身のプロ野球選手投手、右投右打)・コーチ監督解説者評論家

日本プロ野球史上5人目・パ・リーグ初の投手5冠[2]を達成し、「史上最強のアンダースロー」「魅惑のアンダースロー」などと呼ばれた[3][4]
経歴
プロ入り前1957年春の東京六大学大会で立教大学は優勝。左から杉浦忠、本屋敷錦吾長嶋茂雄

「忠」の名は「南総里見八犬伝」から取られたもの。(父、定治は、長男を「仁」、次男を「智」、三男を「孝」、四男を「忠」、五男を「義信」と命名した[5]。挙母町立第一小学校(現:豊田市立挙母小学校)、挙母市立東部中学校(現:豊田市立崇化館中学校)卒業[1]。小学4年から野球を始め、中学時代は5番打者でセンターを守った[6]挙母高校時代は無名の速球投手[7]でコントロールも悪かった[6]。高校3年夏は愛知県大会3回戦で敗退した[6]立教大学進学後は同期の長嶋茂雄本屋敷錦吾と3人で「立教三羽ガラス」と呼ばれた。

1年春から登板があり[7]、もともとオーバースロー投手であったが、大学2年の時にサイドスローアンダースローと呼ばれることなどもある)に転向した。杉浦自身は、転向の理由を「メガネ」としている(当時のメガネはガラスとセルロイドで重かった)。「上手投げ時代のフォームは上下動が激しかったので、投げるたびにずれて苦労していた」「それで、頭の位置を一定にさせるためにサイドスローがよいのではないかと思い、実際、やってみると見違えるようにコントロールが良くなった」「オーバースローで投げていたときの方が、ボールは速かったね。自分でいうのもおかしいが、滅茶苦茶に速かったと思う」と語っている[3][8]。2年春閉幕後の「砂押排斥事件」の後、自主練習の期間があり、そのときにフォームを変えたもので、「砂押監督時代なら反対されてできなかったと思う」と述べている[9]。また、1955年(当時・大学2年生)ごろには長嶋と共に野球部の合宿所を抜け出し、自身の地元・愛知県に本拠地を置く中日ドラゴンズ[注 1]の球団事務所を訪問[10][11]。その上で「軍隊のような立教野球部が嫌になったので、大学を中退して中日で野球をやり、金を稼ぎたい。契約金はいらない」と申し出たが、応対した中日の球団代表[注 2]から申し出を拒否された[注 3][10][12]

東京六大学野球リーグでは1957年春、秋季リーグ連覇に貢献し[7]、秋の早大戦では森徹木次文夫らの強力打線を抑え、ノーヒットノーランを達成した。同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で興津達雄らのいた専大を降し優勝した。リーグ通算36勝(立教OBとして最多)12敗、防御率1.19、233奪三振、ベストナイン2回。勝利の大半を占める28勝は、フォーム変更後の2年間で挙げたものである。1955年には第2回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学野球リーグ選抜チーム)に選出された。
現役時代

卒業後は日本ビール朝日新聞社への入社も考えていたが、1958年南海ホークスへ入団した。入団の際には当時南海の主力選手で大学の先輩でもある大沢昌芳を通じ、長嶋茂雄と共に少なからぬ額の栄養費を受け取っており、両者の南海入団は確実視されていた。その後、翻意して読売ジャイアンツへ入団した長嶋と、義理堅く南海へ入団した杉浦との対比が現在でも語り草となっている[注 4]。長嶋が予想に反して巨人へ入団したことを聞き、心配になって杉浦の元へ来た鶴岡(山本)一人だが、杉浦は「心配ですか?僕がそんな男に見えますか?」とだけ言って笑顔を浮かべたことに、鶴岡は「その静かな口調の底に、『僕は一度決めたことを破るような男ではありませんよ』という強い鉄石のような心が隠されていた(と、後になって分かった)」と語っている[14]

入団後は新人ながら開幕投手を務め、対東映フライヤーズ戦でプロ初勝利を挙げた[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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