杉浦俊香
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すぎうら しゅんこう
杉浦 俊香
明治42年頃の杉浦俊香
生誕今井 高融
1844年6月22日
日本静岡県安部郡
静岡東草深町
死没 (1931-06-08) 1931年6月8日(86歳没)
東京市麻布区広尾町
国籍 日本
別名杉浦 高融
職業日本画家、哲学者、道学
宗教原則論者
著名な実績オフィシエ・ド・アカデミー受章
ルーブル美術館蔵
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杉浦 俊香(すぎうら しゅんこう、天保15年5月7日(1844年6月22日) - 昭和6年(1931年)6月8日)は、戦前、日本の美術家日本画家

駿河国府中(現在の静岡県静岡市葵区)出身。壮年期は日光及び高野山に籠り技を研磨し、支那に遊び台湾に渡り技を磨いた。60歳にして大阪府豊能郡剣尾山山頂に籠居し3年間の修養を積み[1]、独自の日本画を創出し雅号を俊香と称す。

生涯を通じての作品は一般の画家に較べ遥かに少なく、溌墨画及び雪影は独自の画風である。近代日本画壇はもとより、前後五回、欧米に渡り日本画の紹介行脚を行い海外にも日本画を紹介した。1913年(大正2年)、フランス政府より、フランス国外の人間に贈られる最高の勲章であるオフィシエ・ド・アカデミー勲章を授与され、同時にルーヴル美術館より作品『遠浦帰帆』の展示を約束された。
生涯

天保15年5月7日(1844年6月22日)、駿河国府中の徳川家臣・今井家の第十六代今井半右衛門松宇[2]の三男・今井高融として生まれる。幼少期は筆と紙を与えれば泣き止む変わりものだった。6歳の時、父の書斎に入り込んで遊びで描いた絵は大人が舌を巻くほどの出来だったという。

安政4年(1857年)、隠士怡顔斎(松岡恕庵)から運筆の奥義を授かり、「当代の工作に学ぶことなかれ、古人の意を師とせよ」と戒められた[3]。安政6年(1859年)より天台僧・幽深について、専ら道学佛書を修め、仏学の深源と修練の正途とを伝えられ、後事を託された[4]

明治7年(1874年)、明治政府の諸制度改革の潮流が宗教にまで及び、神道・仏教界の前途を憂いた俊香は宗教原則論を唱え、各宗管長の総代となって、時の大教院に建白書を差出している。

明治25年(1892年)、清国視察旅行に出発。旅行先で描いた絵は清国人にも認められ、「今の我が国には、このように中国の伝統に則った絵を描ける人はいない」と評された[5]

明治31年(1898年)、日本美術院の創立に参加した岡倉天心橋本雅邦等と意見を異にし、独自の道を進む。以降、真の日本画の真髄を世界に紹介すべく、たびたび諸外国を歴訪した。

明治35年(1902年)5月15日、『精神有無論』を発刊[6]。6月12日、分家し静岡より東京市神田区三崎町3丁目に転居。同日に滑川よ祢と結婚する。

明治36年(1903年)、杉浦高融名義で大阪で行われた第五回内国勧業博覧会に『二十四孝』2点を出展[7]。明治37年(1904年)、長岡護美高島鞆之助九鬼隆一細川潤次郎福岡孝弟高橋新吉辻新次加藤弘之等から美術学校の講師に推薦される[5]

明治39年(1906年)、当時の俊香は未だかって作画を展覧会に出したことは無く、世間に名前さえ知られていなかったが、12月4日、凱旋記念五二共進会美術部第一回監査会に於いて、橋本雅邦、川端玉章等とともに優待室に『緑陰静修』『湖畔晩帰』を展示され、特選の上審査員に推薦され、松方正義より深謝状を授かる。その画法は極めて精確にしてあたかも相阿弥雪村、若しくは光信の風ありと評された[8]

明治40年(1907年)春、京都美術展覧会の審査委員を務める。この年、駐フランス大使・栗野慎一郎に委託した山水画3点が東洋絵画として初めてパリの中央サロンに展示を許可された[9][10][11]

明治41年(1908年)から同42年(1909年)まで作品14点を携え、アメリカ合衆国、フランスを巡り、日本画の紹介に努めた。フランスにおいてはフランス政府からオフィシエ・ド・アカデミー章を授与された。またルーヴル美術館東洋部長カストン・ミジョンから絶賛され、ルーヴル美術館に作品の展示を約束された[5][12]

明治43年(1910年)、大阪府豊能郡剣尾山の頂に庵を結んで篭居し、以降3年間にわたり不臥不眠の修業を積んだ[13]

大正2年(1913年)10月22日、賞勲局総裁・正親町実正より大日本帝國外國記章佩用免許證(第3494号)を受け、10月30日の官報にてフランス共和政府よりオフィシエ・ド・アカデミー勲章を授与され、佩用を允可された事が発表された[14]。12月4日、受勲祝賀会を兼ねた作品鑑賞会が開かれた。賛助員には蜂須賀茂韶、細川潤次郎、金子堅太郎、加藤弘之、高島鞆之助、九鬼隆一、松室致青木周蔵清浦奎吾土方久元等が名を連ねている[15]

仏蘭西政府から贈られたオフィシエ・ド・アカデミー賞の賞状

仏蘭西政府より贈与されたオフィシエ・ド・アカデミー記章の大日本帝國外國記章佩用免許証

ルーヴル美術館から俊香遺作の寄贈を受けたとする手紙

駐仏大使から俊香遺作がルーヴル美術館に寄贈されたとする手紙

大正4年(1915年)6月、銀座美術館にて絵画復興参照作品展覧会を開く[16]

大正5年(1916年)10月、華族会館にて柳沢保恵主催による杉浦俊香翁作品観覧会が開かれた。11月20日、『絵画と国家の盛衰』を発刊。絵画と国家の盛衰には、松方海東、土方泰山、細川十洲の題字があり、絵画源流参照として21葉の写真が載せてある[17]

大正8年(1919年)、伊東巳代治石川成秀犬養毅早川千吉郎花井卓蔵、細川潤次郎、徳富猪一郎床次竹二郎大木遠吉、金子堅太郎、高橋是清高木兼寛棚橋一郎、九鬼隆一、柳田國男、柳沢保恵、松室致、益田孝福原鐐二郎藤澤南岳古賀廉造佐分利一嗣、清浦奎吾、島田三郎柴田家門平山成信鈴木宗言らにより正画復興会が起こされた。これは、俊香を支援し、日本美術思想の復興を図り、正画の藍奥を明らかにしようとするものであった。同年、俊香は作品を携えて欧米を巡遊し、展覧会を催している。大正9年(1920年)5月と10月には丸の内生命保険協会にて個人展覧会を開催している[18][19]

大正10年(1921年)1月から翌年にかけて作品を携え、アメリカ皮切りにチューリッヒ、ドレスデン、ロンドン、パリを歴遊し東洋絵画の古精神を鼓吹した。アメリカでは二十世紀倶楽部やボストン倶楽部で会員に展覧した。展覧会を取材したスター新聞の美術欄には「秀でた日本美術家杉浦俊香氏の古典派の様式に依って描いた日本画の著しい蒐集が国民美術陳列館の監督の下に、国民博物館に於いて展覧されている。蒐集は掛物、懸額等40点である。此れ等は東洋美術の最も善い伝統と一致し、支那及び日本の巨匠の作品と比較すべきものである」とある[20]

大正11年(1922年)10月26日 - 『画界の維新』を発刊する[21]


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