杉浦享
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杉浦 享基本情報
国籍
日本
出身地愛知県西尾市(旧・幡豆郡幡豆町
生年月日 (1952-06-08) 1952年6月8日(71歳)
身長
体重177 cm
94 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手一塁手
プロ入り1970年 ドラフト10位
初出場1972年5月18日
最終出場1993年10月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


愛知高等学校

ヤクルトアトムズ
ヤクルトスワローズ
(1971 - 1993)

コーチ歴


ヤクルトスワローズ (1994 - 1996)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

杉浦 享(すぎうら とおる、1952年6月8日 - )は、愛知県西尾市(旧・幡豆郡幡豆町[1]出身の元プロ野球選手外野手)・野球指導者・野球解説者東京都荒川区在住。1975年から1980年登録名は杉浦 亨。

ぽっちゃりとした体格から、愛称は「ブーちゃん」(当時打撃コーチだった武上四郎に名づけられた)。
経歴

中学時代は陸上部[1]。しかし、部員不足の野球部に助っ人で引っ張られていた[1]愛知高校入学後も陸上部に籍を置いていたが、ここでも部員不足の野球部に勧誘され入部、1年生からレギュラーになる[1]。甲子園には届かなかったが、左の速球派投手として愛知県下では知られるようになった。

1970年のドラフト10位でヤクルトアトムズ投手として入団[1]。ドラフト下位指名であったが、5人姉弟の末っ子で高2の時に父親を亡くし、苦労している母親のために、富士重工業への就職が決まっていながらプロ入りした。入団後、打者に転向[1]

1972年に一軍に上がり、9月から一塁手として先発出場、10月には6試合に三番打者として起用される。

1973年に新人の小田義人が入団により一塁手に定着。

1975年には小田らとの交換トレードで日本ハムから大杉勝男が移籍入団、一塁の定位置に座る。

1976年には開幕から12試合に一塁手、五番打者として起用されるが、レギュラー奪取まではいかず控え・代打要員が続く。

1977年のシーズン終盤には広岡達朗監督の構想により、外野手へコンバートされる。広岡は当時主に左翼を守っていた若松勉を中堅に回し、空いた左翼を杉浦に守らせる方針だった[2]。本人も「大杉さんが元気なうちは、ファーストでは出られない」と認識していたため、外野転向は渡りに船の話だった[2]。同年12月に結婚。

1978年には左翼手、六番打者の定位置を得て打率.291(19位)、17本塁打、67打点を記録、球団初のリーグ初優勝に大きく貢献する。9月20日の中日ドラゴンズ戦では星野仙一からサヨナラ本塁打を放っている[3]阪急ブレーブスとの日本シリーズでも全7試合に先発出場、24打数7安打4打点を記録した。この年はプライベートでも長男が誕生しており、本人は後に「こういうのを、《棚からぼたもち》って言うのかな、違うか(笑)」と語っている[2]

1980年は打率.311を記録、セントラル・リーグベストナインに選出された。

1983年は外野手に専念、自己最多の13補殺を記録した。

1985年には四番打者に定着、自己最多の34本塁打(5位)を記録し、2度目のベストナインに選出された。

1987年は前年の故障から復活し、カムバック賞を受賞。

その後は池山隆寛広沢克己ら若手が台頭により、1990年野村克也の監督就任前後から左の代打の切り札として活躍する。

1992年はケガにより18試合の出場にとどまった。しかし、同年の日本シリーズ西武ライオンズ第1戦、12回ウラ1死満塁の場面で代打で登場し、鹿取義隆から日本シリーズ史上初の「代打サヨナラ満塁本塁打」を放つ[1]


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