杉村春子
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すぎむら はるこ
杉村 春子
1953年昭和28年)
本名石山 春子
生年月日 (1906-01-06) 1906年1月6日
没年月日 (1997-04-04) 1997年4月4日(91歳没)
出生地 日本広島県広島市
死没地 日本東京都文京区
国籍日本
血液型O型
職業女優
ジャンル舞台映画テレビ
活動期間1927年 - 1997年
配偶者1. 長広岸郎(1933年 - 1942年、死別)[1]
2. 石山季彦[1]1950年 - 1966年、死別)
主な作品
映画
東京物語』(1953年)
秋刀魚の味』(1962年)
舞台
『女の一生』
欲望という名の電車
鹿鳴館
華岡青洲の妻

 受賞
日本アカデミー賞


会長特別賞

1998年

ブルーリボン賞


助演女優賞

1951年麦秋』、『めし』、『命美わし』

その他の賞
キネマ旬報ベスト・テン
主演女優賞
1995年午後の遺言状毎日映画コンクール
女優主演賞
1995年午後の遺言状
女優助演賞
1953年にごりえ』『東京物語日刊スポーツ映画大賞
主演女優賞
1995年『午後の遺言状紀伊國屋演劇賞
個人賞
1991年読売演劇大賞
大賞・最優秀女優賞
1994年
文化庁芸術祭賞
1991年

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杉村 春子(すぎむら はるこ、1906年明治39年)1月6日 - 1997年平成9年)4月4日[1])は、広島県広島市出身の新劇女優[出典 1]。本名:石山 春子。旧姓:中野[4]

築地小劇場より始まり文学座に至る日本の演劇界の屋台骨を支え続け[出典 2]、演劇史・文化史に大きな足跡を残した、日本を代表する女優[出典 3]称号東京都名誉都民
来歴・人物
舞台女優へ

1906年、当時の軍都[10]広島県広島市西地方町(現在の広島市中区土橋町、河原町付近[11])生まれ[出典 4]芸者の母、軍人だったとされる父が春子の幼時に死んだため、花柳界の中にある建築資材商置屋経営者の養女となる[出典 5]。養父は近所の寿座という西日本一の芝居小屋株主だった関係で[出典 6]、幼少期から歌舞伎新派歌劇文楽などに親しむ[出典 7]。両親が赤の他人と知ったのは小学6年生のとき[出典 8]。ショックを受けたが、同時に養母の人生も知り、「世の中で信じられるのは自分だけ。自分が見たもの、感じたもの、自分が発した言葉だけを頼りに生きていく」と決めた[3]広島市立神崎尋常小学校を経て[4]1922年山中高等女学校(現・広島大学付属福山高)卒業後[出典 9]声楽家を目指し上京して東京音楽学校(現・東京芸術大学)を受験するが、2年続けて失敗[出典 10]1924年広島に戻り、1925年から1927年3月まで広島女学院で音楽の代用教員をしていた[出典 11]。広島女学院の教員室で築地小劇場俳優座の前身)の広島公演の話を聞き[3]、同劇団の旅芝居を見て感動[出典 12]。但し観客はポカーン状態だったという[2]。当時は芸能子飼いからやらないとものにならないと思われていた時代で、女学校も出て20歳になろうかとする人が、芸能を始めるなんて夢にも考えられなかったという[2]。1927年4月、母に音楽の勉強をしたいからと偽り再び上京[出典 13]。劇団の合否を待たずに代用教員は退職し、同劇場のテストを受ける。広島訛りが強く、土方与志から「三年くらいセリフなしで辛抱するなら」という条件付きで採用され[出典 14]、1927年、築地小劇場の研究生となった[出典 15]。芸名はだけ、青山杉作の一字を貰い、杉村春子とした[19]。同月『何が彼女をさうさせたか』にたまたま欠員が出たため、音楽教師の前歴を買われてオルガン弾きの役(台詞無し)で初舞台[出典 16]。しばらくはなかなか役がつかなかったが、その卓抜した演技力で徐々に頭角を現していく[13]1929年、築地小劇場が分裂・解散した後は友田恭助らの築地座に誘われて参加[出典 17]1935年の舞台『瀬戸内海の子供ら』(小山祐士作)に出演した[22]
文学座での活躍

築地座の解散後の1937年岸田國士久保田万太郎岩田豊雄らが創立した劇団文学座の結成に参加[出典 18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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