杉本清
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すぎもと きよし杉本 清

プロフィール
愛称杉やん
出身地奈良県大和高田市
生年月日 (1937-02-19) 1937年2月19日(87歳)
血液型B型
最終学歴関西学院大学法学部卒業
所属事務所アライバル
職歴元関西テレビアナウンサー・編成局専任局次長
局長待遇ゼネラルエキスパートアナウンサー
活動期間1961年 -
ジャンルスポーツ(主に競馬実況)、バラエティ
出演番組・活動
出演中一覧を参照
出演経歴「競馬中継エキサイティング競馬ドリーム競馬」「とんねるずのハンマープライス
アナウンサー: テンプレート - カテゴリ

杉本 清(すぎもと きよし、1937年2月19日[1] - )は、奈良県大和高田市出身のフリーアナウンサー競馬ジャーナリスト。元関西テレビアナウンサーで、長年、中央競馬の実況中継を担当したことで知られる。現在はアライバル所属。関西放送記者クラブ会友。血液型はB型。
来歴
入局まで

少年時代の夢はプロ野球選手であった。奈良県立高田高等学校在学中は野球部に所属していたが、猛特訓を受けた反動でスポーツ性の腎機能障害を患ってしまい、このことがきっかけで運動制限がかかってしまい、野球を断念する。この頃からラジオのナイター中継を聴いているうちに、プレーをしている選手よりも実況しているアナウンサーに興味が移っていった。

高校卒業後は関西学院大学法学部[1]へ進学し、在学中の1960年に知人のツテを頼って関西テレビアルバイトとして入社[2]。大道具担当[3]→編成担当を経て[4]1961年松本暢章の勧めでアナウンサー試験を受験し[5]、合格して正社員に登用された[6]非正規雇用であるアルバイトから正社員になった、叩き上げのアナウンサーとなったが、新卒採用や中途採用を経ずに、この手法でアナウンサーとなった放送局の社員は、日本では2023年時点でに至るまでの間、ラジオ放送局を含めても極めて少ない事例である。
競馬実況との関わり

1961年冬に研修で松本に連れられて行った阪神競馬場で、関西テレビから松本に支給されていた昼食代を、松本の勧めで馬券の購入に充てた。その馬券が的中したことをきっかけに、競馬の魅力に取り憑かれる[7]

1962年4月1日の正社員昇格による正式入社日に、いきなり桜花賞中継でパドック担当のアナウンサーとなり[8]、同年6月中央競馬ダイジェストで出張中の松本に代わって毎日杯の実況を担当[9]。この実況が及第点として評価されたことから、以降はパドックの担当に加えて、土曜日にレースダイジェストの実況を任された[10]。やがて、ゲートリポート(番組プロデューサーの発案による日本の競馬中継初のポスト)と、勝利騎手へのインタビューも兼ねるようになった[11]

競馬中継への出演当初から現在のGII・GIIIに相当する重賞の実況をしばしば担当していたが、松本が競馬実況に厳しい方針を立てていた影響で、関西テレビへの入社から現在のGIに相当する重賞の実況を任されるまで6年を要した。1966年4月17日京都競馬場で行われたスワンステークス(優勝・バリモスニセイ)が、確認できる内では杉本の本放送における最古の実況である。

なお、初期の実況ではペースがうまく掴めず、特に長距離レースでは馬と一緒に実況も走るような形となって、最後の直線で声が一杯一杯になってバテてしまう場面も多かった。代表例としてエリモジョージが逃げ切り勝ちを収めた1976年天皇賞(春)が挙げられる[12]
ラップタイムの導入

1969年からは競馬中継がカラー放送化され、番組がレギュラー化、放送時間拡大される事に伴い、正式に松本が司会進行役となりメイン実況担当の座を譲られた[13]
メイン実況の座を正式に譲られて最初の実況は桜花賞で[14]、実況の中で通過時計を入れたのは杉本が最初とされている[15]。事前に栗田勝から『1600mのレースで、最初の800mを47秒で通過すれば前の馬は全部つぶれる』と聞いており[16]、レース中に偶然時計が目に入ったところ、この桜花賞がちょうどそのペースで展開していたため、『ゴールまで800m、46秒かかりました。かなり速いペース、桜花賞ペースになっています。追い込み馬が届く展開です。』[17]

と思わず実況したが、レースは快調に飛ばしたダッシュウエーの脚が残り50mで止まり4着となる一方で、待機策を採ったヒデコトブキが1番人気・トウメイを差し切って優勝し[15]、名手・栗田の予言通りとなった。なお、レース後にフジテレビのメイン実況だった鳥居滋夫から、この実況を『優駿』を通じて「(追い込み馬のペースと断定したことを)怖いもの知らずである」と指摘されるなど議論も起こしたが、ラップの重要性が認識されることとなり、各局の実況において広く取り入れられていくこととなった[16]
双眼鏡からモニター画面重視へ詳細は「タイテエム#エピソード」を参照

1973年の天皇賞(春)では、大雨で視界が悪く各馬が泥だらけとなるレースの中、双眼鏡で本命馬タイテエムを探すうちに3コーナー過ぎで見失ってしまい、「タイテエムはこの集団の中」とあやふやな実況を余儀なくされるということが起こった[18]。杉本は最後の直線でようやくタイテエムを見つけ、『四白流星タイテエム、タイテエムだ、タイテエム先頭だ、タイテエム先頭、タイテエム、
無冠の貴公子に春が訪れます。タイテエム1着、タイテエム1着』

と、何とかきれいにまとめたつもりでいた。ところが、中継のモニター画面では特別体制で増やしたカメラにより、4コーナー手前で大外から他馬をまくって先頭に上がるタイテエムの姿が大映しになっていたことから[19]、レースの翌日の通勤中に『杉本さん、あなた、タイテエムを見失っていたでしょう』と競馬ファンから指摘された[19]
当時の競馬実況は、双眼鏡で馬群を追いながら実況するスタイルが主流であったが、このころになるとテレビ撮影用のカメラも進化し、杉本もたびたび競馬番組のプロデューサーからカメラで撮影された映像を利用した実況を指示されていた。しかしこの時点では半信半疑だったこともありモニターでの実況はテスト扱いレベルであったが、この出来事を切っ掛けとして、双眼鏡を介した実況からモニター画面を重視した実況スタイルに変えていった。
モニター重視へと切り替えたことにより、視聴者と同じ目線で全体を俯瞰的にとらえた実況をしながら、ポイントを押さえたアドリブを入れる余裕が生まれ、後述の「杉本節」へとつながっていった[20]
杉本節

1973年に第一次競馬ブームの立役者となった国民的アイドルホースのハイセイコーが登場。杉本が初めて同馬の実況を担当したのは同年の京都新聞杯であったが、この際に『京都競馬場の白鳥もうっとり、これが噂のハイセイコーです』
『どうだハイセイコー、この淀のコースの走り心地はどうだ』[21][22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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