杉木茂左衛門
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義人杉木茂左衛門之碑(群馬県みなかみ町、茂左衛門地蔵尊千日堂)茂左衛門地蔵尊千日堂(群馬県みなかみ町)義人茂左衛門刑場址(群馬県みなかみ町)

杉木 茂左衛門(すぎき もざえもん、寛永11年(1634年)?[注釈 1] - 貞享3年(1686年)11月5日[注釈 2])は、江戸時代義民上野国桃野村月夜野群馬県利根郡みなかみ町月夜野)の農民。代表越訴一揆の代表的存在である。磔 茂左衛門(はりつけ もざえもん)とも呼ばれる。
伝承

沼田藩真田信利は贅沢を好み城郭の改修を行い、寛文元年(1661年)には利根郡、吾妻郡勢多郡177ヶ村の領地の検地を行い3万石の石高を14万4千石に改め、歳入の増加を図った。さらに川役、網役、山手役、井戸役、窓役、産毛役などの税金を課し、年貢を滞納する者は水牢に入れるなど過酷な取立てを行った。

杉木茂左衛門は利根郡桃野村月夜野出身で、嶽林寺の紹寅和尚に教えを受けた農民だった。茂左衛門は沼田領民の窮状を救うため江戸に出て酒井雅楽頭[注釈 3]駕籠訴を試みたが受理されなかった。茂左衛門は一計を案じ、上野寛永寺の寺侍に変装し、板橋の茶屋に東叡山御用と記した文箱に厳重な封をした訴状を入れ、文箱をあえて置き忘れることで、寛永寺貫首輪王寺宮に届けさせることに成功した。宮が訴状を御覧になったため、訴えは徳川綱吉にも伝えられ、沼田領を調査させたところ、果たして茂左衛門の訴状の通りであった。天和元年(1681年)11月22日に真田信利は山形配流され、翌年沼田城は破却された。茂左衛門は幕府の処置を見届けるまで他国に潜伏していたが、真田信利改易後に自宅に帰った所小袖坂で捕縛された。貞享3年(1686年)11月5日月夜野竹之下河原で磔刑に処され、妻も打ち首となった。沼田領民は代表者を立て江戸で助命嘆願を行い、茂左衛門の助命が決まり上使が赦免状を携え向かったが、処刑の報に接し井土上村で引き返した。

沼田領民が茂左衛門の菩提を弔うため刑場跡に地蔵尊を建立したのが現在の茂左衛門地蔵である。また月夜野にも堂宇を建立し千日の供養を行ったのが現在の千日堂である。(岡部福蔵『上野人物志』大正14年(1925年[1]
諸説
名字

『近世上毛偉人伝』は名前を「齋藤茂左衛門」とする
[2]

他の者の出訴

『近世上毛偉人伝』は
延宝3年(1675年)5月に師村の伝右衛門、白岩村の三郎右衛門、硯田村の市右衛門、下小川村の七郎左衛門、吾妻郡川戸村の新左衛門、大塚村の長兵衛の6人で酒井雅楽頭に直訴したが効を奏さなかった、とする[2]

田村栄太郎は「沼田領階級闘争史略」及び「上野沼田領主真田伊賀守の菲政と農民愁訴」で青柳源右衛門(伊勢町名主)・六郎兵衛父子、狩野新左衛門(中之条町名主)らが領民に迫られて真田信利に訴え出たところ、入牢、闕所となったとする[3][4]

田村栄太郎は「沼田領階級闘争史略」では利根郡政所村の松井市兵衛も茂左衛門と同時期に出訴し、天和元年(1681年)12月29日に政所村地先利根河原で処刑されたとする[5]。後に「上野沼田領主真田伊賀守の菲政と農民愁訴」では松井市兵衛は真田氏改易後、天和元年12月に幕府目付桜井庄之助に出訴し、12月29日に政所地先利根河原で斬首されたが、出訴のみを理由に斬首されたのではなく、代官配下の者に鉄砲を撃ち掛けたことを理由とする[6]

『農民解放の聖者 磔茂左衛門』では伊勢町の名主青柳源右衛門、加右衛門父子が嘆願したために入牢、財産没収になったとする。天和元年正月に政所村の名主松井市兵衛が出訴したとする[7]

後閑祐次『磔茂左衛門』は政所村名主市兵衛が延宝9年(1681年)正月江戸に上り直訴し天和元年12月29日に政所裏の利根河原で斬首されたとする[8]

直訴の相手方

『桃野村誌』は徳川綱吉ではなく
徳川家綱に直訴したとする[9]

日本及日本人』『義民号』では島田三郎が大正6年(1917年)に吾妻郡中之条町に来た際に聞いた事例として茂左衛門を紹介しており、徳川家綱の時代に名主茂左衛門が老中に告訴したという内容である[10]

処刑の年月日

下の表の通り、処刑された月については11月で一致するものの、処刑年は天和2年(1682年)、同3年(1683年)、貞享3年(1686年)と幅があり、処刑日も1日、5日と15日の3種類がある。

妻子

『近世上毛偉人伝』では茂左衛門は出訴の前に妻せつを離縁し、実子茂之助の後見をせつの父に頼むなどして、身内に累が及ばないようにしたとする
[2]

『農民解放の聖者 磔茂左衛門』では茂左衛門が磔にされた際、妻と子も打首にされたとする[11]

状橋地蔵

『桃野村誌』では赦免状を携えた使者が井土上字楯沢(現・
沼田市井土上町)の土橋に着いたときに処刑の報に接し、この橋で引き返したことから、この橋を状橋と称して地蔵を建立したのが今の状橋地蔵であるとする[9]。『農民解放の聖者 磔茂左衛門』においても同様の話を「一説」として紹介している[12]

後閑祐次『磔茂左衛門』では赦免の使者は服部某という侍で、責任感からその場で割腹し、村人が供養のために建立したのが状橋地蔵であるとする[13]。また『農民解放の聖者 磔茂左衛門』においても「又一説」として役人が自殺したとの話を紹介している[12]

大法院塚

後閑祐次『磔茂左衛門』は茂左衛門の訴状を書いたのは吾妻郡須川村(現・みなかみ町須川)の
天台宗駒形山宝蔵寺の住職、大法院六世覚端法印であるとする。覚端は茂左衛門の出訴後に沼田城で取調べを受け、包み隠さず自白したので、塚本舎人が家臣を使って恩田河原(現・沼田市恩田町字上河原)で石子詰めにして惨殺したという。恩田村の人々が覚端を祀ったのが大法院塚であるとする[14]

比較表

文献著者発表年他の者の出訴直訴相手方直訴時期処刑年月日妻子赦免使
「磔刑茂左衛門」『上州』蘆の屋主人1893------
『近世上毛偉人伝』高橋周1893師村の伝右衛門

白岩村の三郎右衛門

硯田村の市右衛門

下小川村の七郎左衛門

吾妻郡川戸村の新左衛門

大塚村の長兵衛徳川綱吉-天和3年11月妻子に累が及ばぬよう離縁-
『上毛義人茂左衛門伝』駒形荘吉1895徳川綱吉天和元年---
『桃野村誌』1910-徳川家綱--妻女斬罪あり
『沼田義民伝』藤沢紫紅1912-徳川家綱、寛永寺宮延宝6年天和2年11月15日夫婦で処刑あり
『教談磔茂左衛門』野口復堂1915徳川綱吉延宝8年12月20日貞享3年11月15日夫妻で処刑あり
『日本及日本人』『義民号』島田三郎1919徳川家綱の老中
「義民茂左衛門略伝」『上毛及上毛人』千日堂再建委員1922-徳川綱吉-貞享3年11月5日妻打首あり
『上野人物志』岡部福蔵1925-徳川綱吉-貞享3年11月5日妻打首あり
「沼田領階級闘争史略」『磔茂左衛門』田村栄太郎1926青柳源右衛門・六郎兵衛父子、狩野新左衛門

松井市兵衛徳川綱吉延宝8年末(戯曲『磔茂左衛門』では貞享3年11月15日)妻打首あり
「上野沼田領主真田伊賀守の菲政と農民愁訴」『封建制下の農民一揆―日本農民一揆録』田村栄太郎1930青柳源右衛門・六郎兵衛父子、狩野新左衛門徳川綱吉天和元年6月?8月
[注釈 4]貞享3年11月5日妻斬罪あり
『農民解放の聖者 磔茂左衛門』萩原進1949青柳源右衛門・加右衛門父子

松井市兵衛徳川綱吉延宝8年12月?翌年2月天和3年11月1日妻子打首あり、自殺
『磔茂左衛門』後閑祐次1966松井市兵衛徳川綱吉延宝8年12月?翌年2月天和2年11月5日妻打首あり、切腹

※「磔刑茂左衛門」は新聞『上州』(坂本計三家文書、群馬県立文書館寄託)に連載された小説だが、2齣、62齣しか発見されていないため全貌は不明[15]


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