すぎさき たかし
杉崎 喬
生年月日 (1935-10-20) 1935年10月20日(88歳)
出生地 日本 朝鮮全羅南道光州府
職業録音技師、会社役員
ジャンル劇場用映画(現代劇、成人映画)、ドキュメンタリー映画、PR映画
受賞
『津軽じょんがら節』(1973年)
日本映画テレビ技術協会第3回柴田賞
第27回日本映画技術賞奨励賞
第28回毎日映画コンクール録音賞
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杉崎 喬(すぎさき たかし、1935年10月20日 - )は、日本の録音技師である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。東京録音現像チーフミキサーを経て、ニューメグロスタジオ常務取締役を歴任した[1]。日本映画・テレビ録音協会元会員[1][12]。 1935年(昭和10年)10月20日、日本統治時代の朝鮮の全羅南道光州府(現在の大韓民国光州広域市)に生まれる[1]。 第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)4月、新制・神奈川県立希望ヶ丘高等学校に進学、1954年(昭和29年)3月、同校を卒業する[1]。1955年(昭和30年)、東京録音現像に入社、録音部に配属される[1]。同社はいわゆる「目黒スタジオ」と通称され、同社創業者であり代表取締役であった金井喜一郎(1901年 - 1961年)は、都映画社
人物・来歴
1960年代中盤に入ると、独立系成人映画が多くつくられるようになり、その初期作品である『野生のラーラ』を製作した内外フイルム(代表三木光人)が『霧のラーラ』(監督北里俊夫)、『血だらけの乳房』(監督南部泰三)を製作、それぞれ1964年(昭和39年)10月4日、同年11月に公開されており、杉崎はそれぞれにおいて録音技師を務めている[4][8]。斎藤邦唯が1965年(昭和40年)に設立した扇映画プロダクションでも、同社の設立第1作である『あばずれ』、『紅壺』、あるいは『うまず女』といった渡辺護の監督作にも、録音技師として杉崎がクレジットされている[3][8]。これら独立系成人映画では、撮影現場での同時録音は行われておらず、もっぱらスタジオでのアフレコで音声を収録しており、杉崎は所属する東京録音現像に発注された仕事において、「目黒スタジオ」内部でミキシング(整音)を行うサウンドエンジニアであった、というのが実態である。1968年(昭和43年)4月27日に公開されたヴィレッジ・シンガーズの主演作『思い出の指輪』は、松竹の配給作品であるが、製作は音楽事務所であるホリプロダクション(現在のホリプロ)が行っており、杉崎は同作において録音技師を務め、これが斎藤耕一との最初の劇場用映画での仕事になった[1][2][3][4][5][6][7][8]。渡辺プロダクションも、東宝が配給したザ・ドリフターズの主演作『ドリフターズですよ!冒険冒険また冒険』(1968年9月21日公開)、『ドリフターズですよ!特訓特訓また特訓』(1969年1月15日公開)の製作を行っており、この際にはスタジオの整音技師として杉崎がクレジットされた[9]。
杉崎は、1973年(昭和48年)12月20日に公開された斎藤耕一の監督作『津軽じょんがら節』の録音技師を務め、同作における杉崎の技術が認められ、日本映画テレビ技術協会第3回柴田賞[16]、第27回日本映画技術賞奨励賞[17]、第28回毎日映画コンクール録音賞[18]を受賞した[1]。同作の製作に携わっていた当時に所属した東京録音現像においては、録音部次長、チーフミキサーを歴任したが、1974年(昭和49年)、同社が閉鎖されてしまい、退社した[1]。同年、同社に所属したメンバーとともにニューメグロスタジオを設立、常務取締役に就任、録音企画本部長を委嘱される[1]。この新会社の代表取締役社長の出口良二、取締役技術部長の福田伸、監査役の高島小二郎はそれぞれ[19]、東京録音現像では営業部長、録音技師、録音部長を務めていた[20]。