杉山神社
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杉山神社(すぎやまじんじゃ)は、主に五十猛神スサノオの子)や日本武尊主祭神とする神社である[1][2]。旧武蔵国における式内社の一社とされるが、その論社とされる神社は現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市東京都町田市稲城市などに数十社存在する[3]。椙山神社表記の場合もある。
概要

杉山神社は周辺地域に住む民衆の信仰の中心として鶴見川水系沿いを中心に拡大したとされるが、謎の多い神社である。鶴見川の他に帷子川および大岡川水系、多摩川の右岸(川崎市・稲城市)に存在するが、多摩川を超えた領域には存在しない。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』では杉山神社が全部で72社あると記されているが、その後の合祀や社名変更などにより現状で宗教法人登録されている「杉山」(椙山も含む)が付く神社の合計は44社となっている[1][3][4]

平安時代貞観11年(869年)に編纂された『続日本後紀』では「枌山神社」と記述される古社で、同書では当社が承和5年 (838年)2月に官幣を賜り、また承和15年(848年)5月には従五位下を授かった旨が記されている[4]。さらに延長5年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』では「武蔵国都筑郡唯一の式内社」との記載もされている。しかしその本社は比定されておらず、未だ多くの論社が存在する。なお、論社のうち現在では横浜市(緑区西八朔町都筑区中川および茅ケ崎中央港北区新吉田町)にある4社が最有力とされている[5]。「鶴見神社 (横浜市)#杉山神社と鶴見神社」も参照

名称の由来については、杉山に祀られていたという説や樹木の神である五十猛命と杉林に因むという説、船舶材として使用されていたの木に因むという説など諸説ある[6]。また当社の由緒についても不明な点が多いが、出雲民族の末裔(五十猛命)が紀州熊野より海人族を引き連れて伊豆半島三浦半島に辿り着き、後者を経由して鶴見川水系に住み着いた一族の頭領が杉山神社を創建したという説がある[6]。なお、三浦半島の三浦郡葉山町上山口には旧相模国で唯一の杉山神社があり、さらに同神社の「元宮」と呼ばれる社も周辺の山中に鎮座しているが[6][7]、旧武蔵国における杉山神社との関係は不明である。この他、茅ケ崎中央の杉山神社に伝わる由緒では「天武天皇白鳳3年、安房神社神主の忌部勝麻呂(紀州忌部氏)によって武蔵国の杉山の岡に高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命)の3柱が祀られ、同氏の麻穀栽培地開墾の拡大とともに神社も広まった」とされている。当時の都筑郡は開拓者である忌部氏の勢力が強く、多くの古墳や環濠集落が作られるなど武蔵国府の支配外にある一つの小国を形成しており、古東海道も横断する物資の集散地であった。ただし、杉山神社の始まりが忌部勝麻呂によるものとされることについては『新編武蔵風土記稿』で記載されているものの、他に文献資料などが残っておらず根拠としては乏しいとされる[1][5]

一方、上述の杉山神社のルーツとは別に、源頼朝縁の旧相模国土肥郷杉山における市杵島姫命弁財天) を祀る「七杉山神社」(鎌倉鬼門鎮護を目的に7つのを建立)とされる社があり、式内社論社の杉山神社とも一部重複している[8]

なお、東京都墨田区千歳江島杉山神社も本来は弁天社江ノ島神社を勧請したもの)であり、「杉山」は杉山和一を祀っているため付いた名である。
関東地方に所在する主な杉山神社
神奈川県横浜市


鶴見神社鶴見区鶴見中央)の旧称


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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