杉山 寧
(すぎやま やすし)
1951年頃撮影
誕生日1909年10月20日[1]
出生地東京府東京市浅草区[1]
死没年 (1993-10-20) 1993年10月20日(84歳没)[1]
死没地東京都文京区[1]
国籍 日本
運動・動向瑠爽画社
杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 1993年10月20日)は、日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。三島由紀夫の岳父。 東京府東京市浅草区浅草西三筋町(現在の東京都台東区三筋一丁目、二丁目西側辺り)に文房具店を営む杉山卯吉の長男として生まれる。本籍・神奈川県。父親が早くに他界したため母親に育てられる[2]。浅草育英小学校
来歴
1947年(昭和22年)に日展特選、1950年(昭和25年)、日展審査員。1951年(昭和26年)に「エウロペ」を日展に出展して本格的に画壇に復帰。以降、作風を一新した絵画を意欲的に発表する。1957年(昭和32年)、日本芸術院賞受賞[5]、1958年(昭和33年)、日展評議員。1970年(昭和45年)、日本芸術院会員。1974年(昭和49年)、文化功労者、文化勲章受章。
1958年(昭和33年)6月、長女・瑤子が三島由紀夫と結婚。三島は瑤子を選んだ理由について「芸術家の娘だから、芸術家に対して何ら幻想を抱いていないこと」を挙げた。実際は瑤子は見合いの際に一目で三島を気に入り、結婚を強く希望した為に、両家話し合いの末結婚と成った(媒酌人は川端康成夫妻)。
1969年(昭和44年)に日展常務理事となり、1974年(昭和49年)に日展理事長に就任。この間、1970年(昭和45年)に娘婿の三島が割腹自殺。1976年(昭和51年)、西ドイツより大功労十字勲章受章。1977年(昭和52年)、東京国立近代美術館評議員。1991年(平成3年)に東京都名誉都民になる。 1956年(昭和31年)から1986年(昭和61年)12月号まで『文藝春秋』の表紙画を描いた。1993年(平成5年)の誕生日の10月20日の午前0時5分、心不全のため没した(生没同日)[6][7]。死後、従三位に叙せられる。墓は寛永寺谷中墓地にある ⇒[1]。
戦前は日本画の技法を極めた技巧で知られたが、戦後は岩絵具を用いながらも線描などの日本画の技法を一新し、メチエールにこだわった独自の作風を確立した。また、エジプトやインドなどの古代遺跡や神像、抽象画や裸婦など従来の日本画にはなかった題材も手掛けた。亡くなる直前まで、納得いくまで絵を修正し続けるなど完璧主義者としても知られた。
家族
父・杉山卯吉 - 文房具店主
妻・元子(1914年生) - 篠原宗嗣の娘。篠原は洲崎遊郭「遠江楼」主人で洲崎三業組合幹事[8][9]。日本女子大付属高女出身。1936年に寧と結婚。義弟(妹の夫)に伯爵小松晃道(西郷従道の孫)。
長女・平岡瑤子(1937年生) - 三島由紀夫の妻。
二女・?子(1940年生) - 外交官・山口達男(中南米局長、 在シンガポール日本大使、在スペイン日本大使)の妻。[10]
二男・晋(1941年生) - ユニメックス社長。妻の真紀子は谷口吉郎の二女。[10]
代表作品
「野(の)」(1933年)(東京藝術大学大学美術館):大学の卒業習作で、首席を獲得した。
「穹(きゅう)」(1964年)(東京国立近代美術館):スフィンクスが題材となっている。
「洸(こう)」(1992年)(ポーラ美術館)
著書、画集
杉山寧 三彩社 1959年
日本の名画 29 杉山寧 講談社 1974年
現代日本の美術 6 杉山寧 座右宝刊行会編 集英社 1976年
日本の名画 26 杉山寧 中央公論社 1977年
杉山寧自選画集 芸術新聞社 1989年
画作の余白に 美術年鑑社 1989年
現代の日本画 8 杉山寧 学習研究社 1991年
杉山寧 日経ポケット・ギャラリー 日本経済新聞社 1991年
杉山寧素描聚成 小学館 1992年
脚注^ a b c d e f g h 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「杉山寧」(2015年12月14日)、2016年10月13日閲覧。
^ a b 杉山寧 略年譜杉山寧アートギャラリーオンライン