杉山和一
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杉山和一(冨士川游の『日本の医学史』1904年より)

杉山 和一(すぎやま わいち、慶長15年(1610年) - 元禄7年5月18日1694年6月10日))は、伊勢国安濃津(現在の三重県津市)出身の鍼灸師検校であることから「杉山検校」とも称される。に通して打つ施術法である管鍼(かんしん)法を創始したと伝えられる[1]。鍼・按摩技術の取得教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設とされる[1]「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した。これには鍼医として仕えた江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の支援を受けた[1]

伯父は杉山四郎右衛門、杉山左門。弟子に三島安一がいる。大正13年(1924年)に正五位追贈された[2]
略歴管鍼(Engelbert Kaempferの"The History of Japan"1727年 より)

津藩家臣、杉山重政の長男として誕生[3][4]幼名は養慶。幼い頃、伝染病で失明し、を義弟である杉山重之に譲った。
江戸での修行時代

江戸で検校の山瀬琢一に弟子入りするも生まれつきののろさや物忘れの激しさ、不器用さによる上達の悪さが災いしてか破門される[5][4]

実家に帰る際に石に躓いて倒れた際に体に刺さるものがあったため見てみるとだったため、これにより管鍼法が生まれる。講談落語『苦心の管鍼』の題材ともなった別伝では、鍼術を何とか上達させたいと江の島弁才天(弁財天、江島神社)で21日間の断食祈願に臨み、満願の日、木の葉に包まれた松葉が身体に触れたことで思いついたとされる[1]。躓いたとされる石が江島神社参道の途中に「福石」と名付けられて名所になっている。東洋鍼灸専門学校校長で、杉山の生涯や鍼灸の歴史を研究する大浦慈観は、管鍼術は当時既にあった可能性もあるが、体系化して広めた功績は杉山に帰せられると評価している[1]
京都での修行時代

山瀬琢一の師でもある京都の入江良明を尋ねるも既に死去しており、息子の入江豊明に弟子入りすることとなった。入江流を極めた和一は江戸で開業し、大盛況となった。
検校(1670?1694)

61歳で検校となり[6]、72歳で徳川綱吉の鍼治振興令を受けて、鍼術再興のために鍼術講習所である「杉山流鍼治導引稽古所」を開設する。そこから多くの優秀な鍼師が誕生している。綱吉との本所一つ目の話は有名である(「本所一つ目」参照)。

和一は江戸にも鍼・按摩の教育の他、当道座(盲人の自治的相互扶助組織の一つ)の再編にも力を入れた。それまで当道座の本部は京都の職屋敷にあり、総検校が全国を統率していたので、盲人官位の取得のためには京都に赴く必要があった。和一は元禄2年(1689年)に関八州の当道盲人を統括する「惣禄検校」となった。綱吉から賜った本所一つ目の屋敷は「惣禄屋敷」と呼ばれこれ以後、関八州の盲人は江戸において盲人官位を得られるようになった。
没後(1694?)弥勒寺の杉山検校墓(2021年11月)

1694年(元禄7年)85歳で死去。逝去日は5月18日という説[7][8]と、6月26日という説[9][10]がある。江島神社弥勒寺に葬られている[11]
杉山流鍼治導引稽古所

糀町(こうじまち)から道三河岸、鷹匠町の後、 元禄6年(1693年)から本所一つ目弁財天社内に開設された。この場所は、杉山和一が徳川綱吉から拝領した約1,900の土地の約半分で、現在は江島杉山神社東京都墨田区)となっている。

ここでの教育は系統的になされており、学ぶ教科書や内用によって次の4段階にわかれていた。

初期教育(?18歳位):按摩・鍼各3年(計6年)の基礎教育。杉山三部書(『療治之大概集』『選鍼三要集』『医学節用集』)が教科書。

中期教育(?28歳位):現在の管鍼法の技術レベルまでの教育。杉山真伝流の『表の巻』が中心となる教科書。

後期教育(?32歳位):杉山流鍼学を他人に伝授できるレベルまでの教育。杉山真伝流目録の巻物一巻(真伝流の『表の巻』『中の巻』『奥龍虎の巻』)を教科書とし、終了時には『門人神文帳』一冊が伝授された。

最終教育(?50歳位):杉山真伝流秘伝一巻が伝授された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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