杉原輝雄
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}画像提供依頼:顔写真の画像提供をお願いします。(2022年10月)

 杉原 輝雄 Teruo SUGIHARA
基本情報
名前杉原 輝雄
生年月日 (1937-06-14) 1937年6月14日
没年月日 (2011-12-28) 2011年12月28日(74歳没)
出身地大阪府茨木市
経歴
成績
初優勝日本オープン(1962年)
賞金王なし
日本プロゴルフ殿堂 殿堂表彰者
選出年2014年
選出部門プレーヤー
2009年2月25日現在
テンプレートを表示

杉原 輝雄(すぎはら てるお、1937年6月14日 - 2011年12月28日)は、大阪府茨木市出身のプロゴルファー

約50年に渡って現役を続行してきた存在感の大きさから「日本プロゴルフ界のドン」と呼ばれた、永久シード権獲得者であった。

長男の敏一もプロゴルファー[1]
来歴

農家の三男として生まれるが、実家は僅かな小作をしながら質素に暮らしていた[2]。小学生の頃から関西の名門である茨木カンツリー倶楽部キャディとして働き、中学卒業後の1953年に同CCに就職[3]ビー玉を買うための小遣いほしさに土日、ボールを拾うため弁当を持ってクラブに通うようになったのがきっかけであった[2]。定時制高校に通いながら[3]、洗濯係を経て研修生となり、寺本金一らに師事しゴルフを始める。その頃の中卒の初任給が3?5000円であったが、プロゴルファーは3万円くらいはもらっていたというクラブで得た情報に、杉原は大金が取れるゴルファーになることを決め込んだ[2]。客がラウンドする前から、終わるまで練習グリーンでずっとパットをするなど努力を続け、1957年に20歳でプロへ転向[3]

1958年関西オープンでデビューすると、1962年日本オープンでは一進一退の混戦を制し、陳清波( 中華民国)・橘田規小針春芳を抑えて初優勝[4]1963年にはアジアサーキットのフィリピンオープンでベン・アルダ フィリピン)の2位に入り[5]1964年には中日クラウンズ中村寅吉との競り合いを制して8打差の大逆転優勝を果たし、細石憲二に競り負けた前年の雪辱を果たした[6]

1965年には関西オープン、関西プロを共に2連覇するなど勢いに乗り、日本シリーズでは4日間首位を走る完全優勝をさらった。初日は3アンダー70で2位の橘田と石井富士夫に5打差、2日目も71と好調で2位の橘田に8打差の独走態勢を固めた。舞台を東京に移した3日目も2アンダー70と安定し、2位の橘田に11打の大差。最終日も危なげなく前日同様の11打差をつけたまま逃げ切ったが、6アンダー284は前年優勝の陳と同スコアであった[7]

1970年には初日69、2日目73で2日間首位を快走。東京での3日目は69で回って2位の島田幸作に4打差の大量リードとなり、最終日も危なげなく通算6アンダーで5年ぶり2度目の制覇[8]1973年は3連覇がかかった尾崎が伸び悩んだことで安田春雄との争いになり、杉原が逆転で3年ぶり3度目の優勝を決め250万円を獲得[9]

1965年には第1回関西有名プロゴルフ競技で50歳の戸田藤一郎と同スコアで優勝し初代覇者となり、1967年の同大会では杉本英世をプレーオフで下して2勝目を挙げる[10]1968年にはアジアサーキットの香港オープンでランドール・バインズ( オーストラリア)の2位に入り[11]1969年の同大会では最終日に首位に4打差でスタート[12]。土砂降りの雨の中で前半2つ伸ばし、13番からの3連続バーディーで、序盤で躓いた首位ラモン・ソタ( スペイン)を逆転[12]。ベストスコア66の通算6アンダー[12]でモーリス・ベンブリッジ( イングランド)を抑えて優勝[13]し、1977年の同大会でも謝敏男(中華民国)の2位に入る[14]

1971年の関西プロでは56歳の戸田と一歩も譲らぬプレーオフを演じ、10番、11番、18番の3ホール合計で争うもので、2人のプレーを大勢のギャラリーが見守った[15]。10番、11番はお互いにパーで、勝負は18番にもつれ込む。途中からやや上りのホールで、56歳の戸田はすっかり疲れ果てていたが、杉原は「おとっつあん、しっかりしってよ」と戸田のを押しながら歩いた[15]。結果はパット勝負となり、杉原は敗れたが、戸田との互角の勝負を繰り広げたことで、杉原の名声はますます上がった[15]

1973年にはツアー施行に伴い、賞金シード権を獲得。以降22年に渡り賞金シードを獲得し続けたが、優勝回数は国内男子プロとしては尾崎将司青木功に次ぐ歴代3位であるものの、ツアー施行後は青木・尾崎に中嶋常幸を加えた「AON時代」[16]に突入していたためにレギュラーツアーにおいて賞金王を獲得したことは無い。

かつては距離のあるコースや、雨で球が飛ばなくなった日はお手上げと言われていたが、1973年のゴルフダイジェストトーナメントでは4日目は雨で時々試合は中断された程の悪条件下で優勝[17]

1977年、1978年1980年全日空札幌オープンを2連覇を含めて3勝している。1977年は最終日に3番ホールの15mのロングパットを決めており、ドライバーの飛距離ではなく、小技を駆使して手堅くパープレーでまとめての逆転勝利となる。杉原は通算33勝目を挙げ、この時点で中村、尾崎と並ぶ日本最多勝記録となった[18]。1978年は精密機械のようなゴルフで青木・中嶋を圧倒し、飛ばし屋の2人がショートアイアンで打つケースを後方からウッドでピンに絡める技術を駆使し、通算4アンダーで連覇を達成。杉原は通算34勝で史上2位の中村に並ぶ[18]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:53 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef