杉原紙
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1970年代に再興された杉原紙

杉原紙(すぎはらがみ、すいばらがみ、椙原紙)は、和紙の一種である。

杉原紙、椙原紙、のほか、歴史的には単に「杉原」とするほか、「すいば」「すいはらがみ」「すいはら」「すい」や「水原」「水原紙」の表記もみられる[1][2]

九州から東北の各地で生産され、中世には日本で最も多く流通し、特に武士階級が特権的に用いる紙としてステータスシンボルとなった。近世には庶民にまで普及したが、明治に入ると急速に需給が失われ、姿を消した。

その後「幻の紙」とされていたが、近年になって、原産地が兵庫県であると考えられるようになり、現地で和紙の生産が再開された。再興後は「杉原紙」の名称で兵庫県の伝統工芸品とされている。
概要

「杉原紙」という名称は、歴史的に2つの異なる意味で用いられてきた。

ひとつは「杉原地域で生産された和紙」を指す語で、もうひとつは「杉原式の製法で作られた和紙」を指す語である。

後者の「杉原紙」は中世から近世にかけて、日本各地で作られるようになっており、「杉原紙」や単に「杉原」と呼称されていた。この杉原紙は、鎌倉幕府の公用紙となり、大量に流通した。この頃、武士階級に一束一本という贈答品の慣習が定着したが、ここでいう「一束」は通常「杉原紙を一束(一束は約500枚)」を意味した。武士に対して手紙を書く際には杉原紙を用いるのが作法とされ、杉原紙は武家を象徴する和紙となった。

杉原紙は極めて大量に流通してあちこちで生産され、様々なバリエーションが登場して人気を博したため、「杉原紙の特徴」を特定して端的に説明することは難しい。しかしおおまかに言うと、コウゾを原料とし、米粉を添加し、凹凸(皺)のない和紙ということができる。

杉原紙は江戸時代中期には庶民も使うほどに普及し、需要を賄うため各地で様々な「杉原紙」が生産されるようになった。江戸期に「杉原紙」を生産していたのは、九州から東北まで20ヶ国に及ぶ。やがて明治期に至るが、その頃には「杉原紙」はきわめて一般的な紙になっていたので、「杉原紙」のルーツがどこにあるかは、もはやわからなくなっていた。たとえば江戸期や室町期の文献には、「板漉き」という製法が杉原紙の特徴であるとの記述があったが、幕末の研究者には「板漉き」というのがどのような技法であるか、わからなかった。「杉原紙」がなぜ「杉原紙」と呼ばれるのかも不明で、もともと「杉原」という土地で作られたのだろうとは推測したが、その「杉原という土地」がどこなのかは諸説あって定まらなかった。室町期に最良の杉原紙とされたのは「加賀杉原」といい加賀国で生産された杉原紙だったし、美濃国杉原村が発祥とする説(『新撰美濃志』1900年)もあった[3][4]

近代になって西洋紙が流入すると、手作業で小規模で生産される和紙は、大規模な工場で生産される西洋紙にとって換わられるようになった。武士階級が消滅したことで一束一本の慣習も廃れ、杉原紙の需要は激減し、大正時代には杉原紙の生産は全く行われないようになって姿を消した。杉原紙は「幻の紙」と呼ばれるようになった。

昭和初期に研究家が杉原紙のルーツを調べ、1940年(昭和15年)に兵庫県(旧播磨国)の杉原谷村(合併により、加美町を経て2014年現在は多可町の一部)が発祥の地であると結論づけた[5][6]。播磨国は古代から製紙が行われていた地域のひとつと考えられており、美濃国などとならび和紙の生産国として最も古い地域とする説もある。そのなかで杉原谷は藤原摂関時代に藤原氏の荘園(椙原庄)だった地域で、かなり古い時期から和紙の生産が行われていたとされる[注 1]

杉原谷では、1972年(昭和47年)に当時の加美町(2014年現在は合併により多可町の一部)が出資し、町立杉原紙研究所を設立し、和紙の生産を再開した[5][6]。再開された和紙づくりでは、かつて武士階級の間で使われたとされる「杉原紙」の特徴的な製法(板漉きや米粉の添加)は行っていない。この再興された「杉原谷生産の和紙(杉原紙)」は、1983年(昭和58年)に兵庫県の無形文化財に指定され、1993年平成5年)には兵庫県によって伝統的工芸品とされた[6]
「杉原紙」の興亡史
紙の品質に対する価値観

きわめて古い時期には、「厚い紙」が堅固で良いものとされており、戸籍など保存性を要求される公文書に用いられていた[7][8]。しだいに紙の需要が増大すると、中国ではを原料とすることで紙の増産を実現したが、日本では原料がもっぱらコウゾに限られていた[8]。日本では、限られた原料からより多くの紙を生産するために、紙を薄く漉く技術が編み出されていった[8]。薄い紙を漉くための技法にはいくつかあり、紙の生産地ごとに異なる方法が磨かれていったが、たいていその技法は門外不出とされており、紙の名称は産地を表すと同時に、特定の製法で漉かれた紙を指していた[8]その代表が美濃紙で、もとは美濃国産の紙のことだったが、美濃で薄い紙を漉くようになると、美濃で漉かれた薄い紙を「美濃紙」と呼ぶようになり、やがて美濃紙の製法が各地へ広まると、美濃産でなくとも、その製法で漉かれた薄い紙を「美濃紙」と呼ぶようになった[8]

こうした薄い紙を作り始めたのが早かったのは、筑紫国播磨国、それに越国だった[8]。記録では746年(天平18年)に播磨国から薄紙(播磨で産したので「播磨紙」と呼んだ)が正倉院へ納められている[8][9]。こうした薄紙は写経に用いられたほか、屏風神輿にも使われた[8]

平安時代になると、新たな紙の消費者層として公家の女性が登場した[10]。彼女たちは薄く滑らかな紙を好み、特に「薄様」と呼ばれた斐紙を愛好した[10]。『源氏物語』『枕草子』『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』『宇津保物語』などには薄い紙の良さへの言及がある[10]

これに対し、公家の男性は厚手のコウゾの紙を好み、コウゾをふんだんに使った厚い紙は高級紙としてステータスシンボルでもあった[10][11][7]
杉原紙の登場

古代には、公用紙を生産するために全国各地から紙の原料であるコウゾを納める制度があり、中央には紙屋院が設けられて朝廷で用いる記録用の高級紙(紙屋紙)を生産していた。中央集権化がすすんで各地の国・国府が整備されるようになると、地方でも公用紙の需要が起きたが、紙はそれぞれの地方で調達することとされ、各地の農産地でも紙漉きが行われるようになった[11][12]

平安時代には、貴族階級が地方に所有する荘園が発達し、それによって中央への貢納が衰えるようになった。紙も同様で、有力な貴族は地方の荘園で紙を独占してしまい、中央の紙屋院へ納められる原料は減っていった[11][12]。一方、各地の紙産地では独自の製紙法がうまれ、産地固有の紙が登場するようになった[11][13]。例えば越前国では奉書紙が、美濃国では美濃紙が、備中国では檀紙が、大和国では吉野紙・奈良紙が生み出されていった[14][11][15][16][17][13]

杉原紙が初めて記録に登場するのもこの時期である[2]。平安後期に藤原氏の頂点にいた藤原忠実(1078年 - 1162年)の日記『殿暦』のなかで、1116年(永久4年)[注 2]に忠実が子の藤原忠通泰子に「椙原庄紙」を100帖[注 3]贈ったという記述がある[1][19][18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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