凡例杉 元宣
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕不詳
死没天正17年3月6日(1589年4月20日)
改名杉長相→杉元宣
別名通称:小次郎
神号給足霊神
戒名法眼院殿覚永元正大居士
墓所興元寺
杉 元宣(すぎ もとのぶ)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初めは大内氏に仕えて杉 長相(すぎ ながすけ)と名乗り、防長経略以後は毛利氏家臣となる。通称は小次郎。父は杉元相。妻は児玉元良の娘で、後に毛利輝元の側室となる周姫(清泰院)。養子に杉元常がいる。 豊前国の名族・杉氏の一門で周防国を本拠とする「杉次郎左衛門家」当主で、大内氏家臣の杉隆相(後の杉元相)の嫡男として生まれる[2]。初名の「長相」は大内義長から偏諱を受けて名乗ったものと考えられる。 弘治元年(1555年)から始まる毛利元就による防長経略では、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}山代衆の残党と共に周防国玖珂郡宇塚の成君寺山城 天正8年(1580年)10月6日、父・元相と共に3町分の段銭[注釈 1]を興元寺に寄進する[3][4]。 天正11年(1583年)8月、桂広信
生涯
大内氏家臣時代
毛利氏家臣時代
天正12年(1584年)、児玉元良の娘・周姫(清泰院)と婚姻する[注釈 2]。
天正13年(1585年)1月26日に父・元相が病死すると家督と周防国都濃郡野上庄の所領を相続し、毛利輝元に仕えてしばしば軍功を立てた[7][8]。同年4月、元宣を施主として、周防国佐波郡植松村の植松八幡宮を再建する[9]。また、同年11月19日に舅の児玉元良が死去している。
天正14年(1586年)、豊臣秀吉の九州征伐では小早川隆景の配下に入って筑前国へ出陣し、以後長く筑前国に滞在した。
非業の死(土佐守)・就澄(清兵衛)父子らに命じて、周姫を奪い、自身の側室とした[10]。
主君とはいえ輝元の悪行に激怒した元宣は、周姫を取り戻すため、天正17年(1589年)3月1日に筑前国を出立し帰国の途についた[11]。元宣の出立を知った小早川隆景は、血気にはやる元宣が帰国すれば如何なる珍事を起こすか知れないことから、元宣を不憫に思いながらも御家の大事のため、村上景親や井上景政らに追跡を命じ、元宣に追いつけば説得して連れ戻し、どうしても説得に応じない場合は討ち果たすよう命じた[11]。事は主君相手の一大事であることから、元宣は父・元相の位牌や今まで世話になった者へ暇乞いをするために一度、野上庄に立ち寄ったが、野上庄を出立した際に海が荒れたため、粭島沖にある「大島の船隠し」と呼ばれる入り江に退避していた所を村上景親の船に追いつかれた[12]。元宣は説得に応じなかったため、3月6日夜に殺害され[12]、その後、杉氏の菩提寺である興元寺にある父・元相の墓の側に葬られた[2]。
周防国や長門国において口伝され流布されてきた物語を集めた『古老物語』に収録された伝承よると、元宣殺害の事実は伏せられ、公には「風で船が沈んで溺死した」とされた[6][13]が、その後、毛利家の船が徳山湾の沖を通ると海が荒れるようになり、広島域中では奇怪な事件が相次いだという。
なお、元宣の元妻・周姫は広島城二の丸に住んだことから、二の丸殿と呼ばれ、輝元との間に萩藩主・毛利秀就や徳山藩主・毛利就隆らをもうけた。 元宣の死の1ヶ月半後の天正17年(1589年)4月20日、杉氏の所領であった周防国佐波郡植松村の内の1町6段半30歩の田と3段大の畠[注釈 3]が、毛利輝元によって周防国吉敷郡山口の多賀神社
死後
元宣の死により、元宣の同族である杉元常が養子として家督を相続したが、元常が死去すると、「杉次郎左衛門家」は断絶した[2][8]。
慶長4年(1599年)10月14日に毛利輝元の命を受けた佐世元嘉が杉元相・元宣父子の菩提を弔うために興元寺の寺領を安堵した[3]。
安政5年(1859年)11月6日、徳山藩の祈祷所である常祷院の参道の西側にある辻村の内に元相父子を祀る「杉家両霊社」の上棟式が行われ、万延元年(1860年)閏3月11日に遷宮式が行われている。元相の神号を「順成霊神」、元宣の神号を「給足霊神」とし、惣社号を「和亨社」、毎年の祭日を3月20日とした[注釈 4][15][16]。 杉元相・元宣父子の墓は興元寺境内の墓地内に存在しており、墓域の右側に興元寺の歴代住職の墓、左側に杉氏一族の墓と思われる古塔群があるが、父子の墓だけは石造りの玉垣で囲まれて保護されており、墓前には香炉と一対の花立てが備えられている[17]。
墓所