杉亨二
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杉亨二

杉 亨二(すぎ こうじ、文政11年8月2日1828年9月10日) - 1917年大正6年)12月4日)は、日本の統計学者官僚啓蒙思想家法学博士。「日本近代統計の祖」と称される。初名は純道(じゅんどう)。柳樊斎と号した。
生涯

杉泰輔の長男として肥前国長崎(現在の長崎県長崎市)に生まれる[1][注釈 1]。9-10歳の頃に両親と死別し、祖父・杉敬輔の友人上野俊之丞が経営する上野舶来本店(長崎の時計店)に丁稚奉公に入る[3](p31)。同店は精密機械の高度な技術を有していたほか、オランダからの書物をふくむ多様な舶来品をあつかっていた。そのため、緒方洪庵、緒方摂蔵、手塚律蔵、村田徹斎など多くの蘭学者が出入りしていた。杉はここで緒方摂蔵から借りて読んだ『医範提綱』[4]に感銘を受け、医学を志す[2](p12)。村田徹斎が大村藩藩医になることになった際、杉は村田に従って大村に移り、村田の書生となる[3](p32)。1848年(嘉永元年)に大坂適塾に入り、蘭学を勉強したが、脚気を患い、同年大村に帰った[5]

1849年(嘉永2年)、江戸詰めになった村田にともなわれて江戸に出、手塚律蔵杉田成卿からオランダ語のみならず英語フランス語も習う[6](p11)。その後、中津藩江戸藩邸蘭学を講じることになる[注釈 2]1853年(嘉永6年)には勝麟太郎(勝海舟)と知り合い、多忙な勝に代わって勝の私塾でオランダ語を教える[3](p33)。同時期に伊澤美作守(伊沢政義)とも懇意となる[5](p25)。

1856年(安政3年)、勝が長崎海軍伝習所に入所する際に同行を希望したが、幕府に勝が提出した同行者推薦名簿を見た老中阿部正弘が杉に興味を持った[注釈 3]ことから、結局長崎には行かず、伊沢の斡旋で阿部家の侍講(顧問)となった[5](p28)。杉による地理書や文法書の講釈を聴いた阿部は、感心して「入用の書あらば申出られたし幾何なりとも購入すべし」[7](p25) と言い、その後機会あるごとに杉を陪席させている[5](p30)。同年、杉は中林きん[注釈 4] (阿部家お側役であった中林勘之助の妹)と結婚[5](p31)[9](p16)。この時期にヨーロッパ留学の話を進めていたが、阿部の死去により頓挫した(結局、杉は生涯一度も海外に出ていない)[10]。この際、杉は、物産学・政事学・兵学・究理学・航海学などを学ばせるための留学生派遣の要を説く嘆願書[7](pp26-27)を作成している[10]

1860年万延元年)に江戸幕府蕃書調所教授手伝となった。1864年には幕府直参として登用され、蕃書調所が改組されてできた開成所の教授並となる。この頃、洋書の翻訳に従事している際にバイエルン王国(現在のドイツバイエルン州)における識字率についての記述に触れたのが統計と関わるきっかけになった、と後年回想している[5](p41)。また、1866年(慶應元年)にオランダ留学から帰った西周津田真道との交流からも、統計への興味を深めていった[6](p4)。津田から借りた留学中の統計学ノートを、杉は「形勢学論」[11]として翻訳している[10]。自叙伝[5](p36) によれば、名を改めて「亨二」としたのはこの頃である[注釈 5]

明治維新後は、駿河に移封となった徳川家にしたがって静岡藩に仕え、他の開成所メンバーと同様に、向山黄村津田真道が学頭をつとめる静岡学問所で教える[12]沼津府中の両奉行の協力を得て[注釈 6]1869年明治2年)に「駿河国人別調」(人口センサス)を実施したが、静岡藩上層部から版籍奉還を契機とする反対論が出たため、途中で打ち切った[9]


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