杉下茂
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杉下 茂現役時代(1955年)
基本情報
国籍 日本
出身地東京府東京市神田区
(現:東京都千代田区
生年月日 (1925-09-17) 1925年9月17日
没年月日 (2023-06-12) 2023年6月12日(97歳没)
身長
体重182 cm
71 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1949年
初出場1949年4月3日
最終出場1961年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


旧制帝京商業学校

いすゞ自動車

明治大学旧制専門部

中日ドラゴンズ
名古屋ドラゴンズ
中日ドラゴンズ
(1949 - 1960)

毎日大映オリオンズ (1961)

監督・コーチ歴


中日ドラゴンズ (1959 - 1960)

毎日大映オリオンズ (1962)

阪神タイガース (1964 - 1966)

中日ドラゴンズ (1968)

読売ジャイアンツ (1976 - 1980)

西武ライオンズ (1993 - 1994)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1985年
選出方法競技者表彰
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杉下 茂(すぎした しげる、1925年9月17日 - 2023年6月12日)は、東京府東京市神田区(現:東京都千代田区)出身のプロ野球選手投手)・コーチ監督解説者
概要

日本プロ野球史上初の本格的なフォークボールの使い手(フォークボーラー)とされ、当時は珍しさがあったものの驚異的な変化の切れ味と落差を誇るフォークボールを自在に操って球界に絶大な影響を与えたことから「フォークボールの神様」と呼ばれている[1][2]

1954年に32勝を挙げるなど中日ドラゴンズのエースとして活躍し、沢村栄治賞を史上初めて3度受賞しているほか、史上4人目・セ・リーグ史上初となる投手五冠王[3]に輝いている。その実力は、「ミスタージャイアンツ」長嶋茂雄からも「生涯でナンバーワンと思えた人間の一人」と称された[4]。歴代屈指の名投手コーチとも言われている[5]
経歴
プロ入り前

杉下家の本家は「岐阜の小京都」として知られる郡上八幡だが、実家は大きな中華料理屋で、茂は父親が50歳ほどの時に生まれた[6]。茂にとって父親は身体を壊して寝込んでいる印象しかないが、野球好きで、寝床にいながら東京六大学野球の試合をラジオで聞きつつスコアブックを付けていた。また母は野球好きではなかったが、日曜日には弁当を持って神宮球場へ連れて行ったという[6]。茂が2 - 3歳の頃に一家は父親の職場がある中央区新川へ転居したが、その際にグローブとミットを買ってもらい、明正小学校低学年の頃に3歳上の兄とキャッチボールを始めた。当初は兄が投手、茂が捕手でプレーしていたが、茂は「本当は投手が良かったが弟だから仕方ない」として諦めていたという。4年生の2月に父親が病没すると神田区(現:千代田区)神田へ転居し、錦華小学校へ転校した。錦華小学校は神田区では区大会で負けなしの強豪で、4 - 5歳年上の仲間に混ざってプレーしていたところを野球部へ勧誘された。初の試合のみ捕手を務め、2試合目から投手としてプレーする。

旧制帝京商業学校では野球部に所属し、監督だった天知俊一の元で4番・一塁手としてプレーした。長身を生かして投手として登板することもあったが当時は弱肩で、守備時の送球は下手投げに近い横手投げだった。1944年3月に卒業後12月25日に入隊し[7]、野球経験者という理由だけで中隊対抗の手榴弾投げ競争の代表選手に選ばれた。そのために弱肩を言い出せず、投球フォームを上手投げに矯正して必死に遠投を練習した結果、肩が強くなって優勝した。1945年には中国に出征し、同年3月21日に海軍に所属していた兄・安佑が特攻隊として沖縄方面へ出撃して戦死し、少佐に二階級特進となった。終戦後は杉下自身も捕虜収容所に入れられ市中引きずり回しまでさせられたが、井戸水の上澄みだけを飲むようにしたことが功を奏し生き延び1946年1月に帰国した[8]

復員後は社会人野球のいすゞ自動車へ入社し、当時監督だった苅田久徳によって本格的に投手として起用される[9]。同時期に存在したプロ野球「大和軍」が消滅したため、苅田自身や高橋吉雄らが加入して「いすゞ自動車硬式野球部」として本格的に活動を開始した。初の対外試合は日本コロムビア戦で、苅田から投手で起用されるといきなりノーヒットノーランを達成した。その際の球審は奇しくも天知で、病気療養の弱肩投手から強肩速球派投手に進化していた杉下に驚愕していた[6]

第二次世界大戦で中断していた東京六大学野球リーグが1946年春に再開されると、杉下は野球を続けるために都市対抗野球終了後にいすゞ自動車を退社し、明治大学旧制専門部へ入学した。監督の苅田が法政大学出身だったために、杉下へ「都市対抗が終わったら法政に入れ」と言っていたが断り、杉下の入学に関しても天知は一切関与していないという。監督だった八十川胖の指導で練習を行うがその練習はいい加減なもので、午前中に300球近くを投げ込んだ後に打撃練習へ2時間登板、投げ方も横や下など定まらない投球で、一日1000球も投げ込んだという。また、八十川から杉下が天知の教え子と聞くや、杉下が一塁手をやっていたらしいというだけで一塁でノックを受けさせたほどである。

大学卒業直前の1948年正月、岡山県立琴浦商業学校に投手として在籍していた東谷夏樹にナックルボールを教えていた杉下を見かけた天知から、「『フォークボール』というものがある」と教えられる。しかし、試合で初めて投じた1球目が当たり損ないの安打になったことで縁起の悪さを嫌い、すぐに封印してしまった。封印後も八十川から吐くほどにまで投球練習をさせられてついに肩を壊したが、杉下は「残念だったのは在学中に一度もリーグ戦で優勝できなかったこと」と述べている[6]
プロ入り後
米キャンプ参加から五冠王

明治大学旧制専門部での3年間を終え、そのまま学部(3年間)へ進学するかプロ入りするかで迷った杉下は結局、1949年中日ドラゴンズへ入団した。父親の病没後に駄菓子店を営んでいた母親からは「お金は何とかなるから学部へ進め。野球を職業にしてはいけない」と猛反対され、明治大学監督の宮坂達雄からは財界からスポンサーを探したが、他人の世話になって大学を卒業することに抵抗を感じていたという。杉下の中日入団に関しては天知と、駿台倶楽部会長だった小西得郎の世話があったという[9]。また、入団直前には当時の人気コメディアンで亡くなったばかりの高勢実乗の2代目としてスカウトされたが、その理由は「(杉下の)風貌がよく似ていた」というだけだったという[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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