朴泳孝
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朴 泳孝
宮内府大臣
朴泳孝(1910年、『朝鮮貴族列傳』より)
本貫氏派潘南朴氏[1]
字号子純
雅号春皐
誕生年咸豊11年6月12日1861年7月19日
誕生地 朝鮮国
京畿道水原
没死昭和14年(1939年9月20日
没死地 日本統治下朝鮮
京畿道京城府
実父朴元陽
実母全義李氏李潤行の娘
配偶者永恵翁主
子女朴妙玉 孫女 朴贊珠 朴贊汎
墓所慶尚南道釜山府沙下区京畿道南楊州市

朴 泳孝(ぼく えいこう、パク・ヨンヒョ、朝鮮語: ???、1861年7月19日 - 1939年9月20日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家で、日本統治時代の朝鮮における貴族実業家日本名は山崎 永春。本貫潘南朴氏[2]
生涯

判書大監朴元陽(朝鮮語版)の子として京畿道水原に生まれた。金玉均らと共に開化党独立党)を結党した。独立党の中心メンバーは若く、多くが将来を嘱望される両班の令息たちだった。特に朴泳孝は、政権中枢の最高級官僚を父に持ち、国王の娘婿という外戚王族で錦陵尉の称号を賜った、貴公子中の貴公子だった[3]
光緒5年(1879年)、金玉均らと共に李東仁を日本に密出国させ、日本の情勢を探らせた。福澤諭吉の支援を受け、光緒8年(1882年)、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のために派遣された謝罪使(副使は金晩植と金玉均であった[4])として日本に向かう船上で、現在の大韓民国国旗である太極旗のデザインを考案したとされる。朴泳孝が日本に派遣された4ヶ月間のことを記した日記『使和記略[5]』によると、8月9日に仁川から日本船籍の明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは、船内でイギリス領事アストンとイギリス人船長ジェームスにそれまで国旗として提案されていた八卦と太極文様を描いた古太極図を見せて国旗について相談したところ、船長が八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便であると述べたため、四卦を削り、残りの四卦を45°傾けて四隅に配した図案が提案され、大・中・小3本の太極旗が作られたという。8月14日、神戸に到着した一行は宿泊した西村旅館にはじめて太極旗を掲げ、8月22日、太極旗小本とともに国旗制定を本国に報告したという。

帰国後は漢城判尹となり、開化政策を進めるが守旧派(事大党)の反対に遭って挫折。さらに光緒10年(1884年)12月にはクーデターで閔妃派からの政権奪還を図ったが失敗(甲申政変)、日本郵船の「千歳丸」で日本へ亡命。慶應義塾に隣接していた福沢邸に寄食し、転じて神戸に居を構えた。

明治27年1894年)、日本人作成の朝鮮輿地図に、“紹隆三寶”の題で“??? ??? ??? ????”(王権と 国土と 国民を 保全しよう)と綴っている[6][7]

光緒20年(1894年)に甲午改革が始まると、帰国して内務大臣となり、改革の中心的な役割を果たすが、開国504年(1895年)に謀反の疑いをかけられ、再び日本に亡命した。その後光武11年(1907年)に再度韓国に戻り、李完用内閣の宮内府大臣となったが、大臣暗殺陰謀の疑いで済州島流刑処分とされた。

隆熙4年(1910年)の韓国併合後には侯爵朝鮮貴族)となり、神宮奉敬会初代総裁(1909年に開会、のち、神宮敬義会が開会。)、朝鮮貴族会会長(1911年)、朝鮮銀行理事(1918年)、朝鮮経済会会長(1919年)、朝鮮維民会会長(1919年)、東亜日報社初代社長(1920年)、朝鮮人産業大会会長(1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年11月)、京城紡績社初代社長、朝鮮殖産銀行理事、朝鮮総督府中枢院顧問(1921年)[8]東光会朝鮮支部初代会長(1922年)、貴族院議員(1932年12月23日就任[9])など、日本統治下の朝鮮における要職を歴任した。昭和10年(1935年)、 朝鮮総督府が編纂した"朝鮮功労者名鑑"に朝鮮人功労者353人のうちの一人に収録されている。


1939年に亡くなり、朝鮮半島にて執り行われた葬儀は、国葬といえる壮観なものだったという[10][11][12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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