.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}朴(パク) 正煕(チョンヒ)
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大韓民国
第5-9代 大統領
任期1963年12月17日 – 1979年10月26日
首相
崔斗善(朝鮮語版)(1963-1964)
丁一権(1964-1970)
白斗鎮(1970-1971)
金鍾泌(1971-1975)
崔圭夏(1976-1979)
国家再建最高会議
議長
任期1961年7月3日 – 1963年12月17日
内閣首班
宋尭讃(1961-1962)
金顕哲(1962-1963)
国家再建最高会議
第3代 内閣首班
任期1962年6月18日 – 1962年7月9日
出生1917年(大正6年)11月14日
日本統治下朝鮮 慶尚北道善山郡亀尾面上毛洞
死去 (1979-10-26) 1979年10月26日(61歳没)
大韓民国 ソウル特別市鍾路区宮井洞
政党
南朝鮮労働党
民主共和党 (1963-1979)
維新政友会 (1973-1979)
出身校
大邱師範学校修了
満洲国陸軍軍官学校(第2期)
朝鮮警備隊学校
配偶者
李現蘭[1](1950年2月まで同棲)
金好南(朝鮮語版)(キム・ホナム、1950年11月に離婚)
陸英修 (1951?1974)[2]
子女
朴在玉(朝鮮語版)
朴槿恵
朴槿令
朴志晩
署名
パク・チョンヒパク・ジョンヒ
日本語読み:ぼく せいき
ローマ字:Bak Jeonghui(2000年式)
Pak Ch?ngh?i(MR式)
英語表記:Park Chung-hee
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朴 正煕(パク・チョンヒ、パク・ジョンヒ[3][4]、日本語読み: ぼく せいき、ハングル: ? ??、1917年〈大正6年〉11月14日 - 1979年10月26日)は、大韓民国の政治家、軍人。軍での最終階級は陸軍大将。
1961年5月の軍事クーデターで第二共和国体制を崩壊させて国家再建最高会議議長に就任し、民政移管後の1963年から1979年まで大統領(第5代から第9代)を務めた。彼の時代から約30年間にわたって『漢江の奇跡』と呼ばれる高度経済成長が実現され、韓国は世界最貧国の層から脱したと評価される[5]。
一方、1972年の自己クーデター及び憲法改正(十月維新)で大統領任期と重任制限を撤廃することで永久執権を図ろうとし、また民主化運動をスパイ操作や司法殺人などで弾圧したとして「独裁者」との批判的評価も受けていた。
本貫は高霊朴氏。号は中樹(チュンス、??)。創氏改名による日本名は高木 正雄(たかぎ まさお)[6]。1番目の妻に金好南(朝鮮語版)。2番目の妻に文世光事件で暗殺の犠牲となった陸英修。好南との間に長女の朴在玉(朝鮮語版)。英修との間に、次女で第18代大統領の朴槿恵と、長男でEGテック現会長の朴志晩がある。 日韓併合後の朝鮮半島に朴成彬と白南義の末っ子として生まれる。日本名では高木正雄(たかぎまさお)と名乗った[6]。大邱師範学校を卒業して教員を短期間務めた。やがて満洲国軍の軍官(将校)を志し、満洲国陸軍軍官学校(大日本帝国陸軍の陸軍士官学校に相当)予科に1939年4月に入校し、1944年4月に満洲国陸軍軍官学校本科を卒業した。大日本帝国陸軍の陸軍士官学校の留学生課程への短期間の派遣を経て、1944年9月に満洲国軍少尉に任官した。八路軍や対日参戦したソ連軍との戦闘に加わり、内モンゴル自治区で終戦を迎えた。 第二次世界大戦後、中国の北京に設置されていた大韓民国臨時政府(朝鮮系住民による独立組織)に加わり、朝鮮半島の南北分離時は南部の大韓民国を支持して国防警備隊の大尉となった。国防警備隊が韓国国軍に再編された後も従軍を続け、一時は南朝鮮労働党員だったことが発覚して軍法会議にかけられるが、転向して党内情報を提供したことやその能力の高さを評価した軍の将校による除名嘆願で軍籍剥奪に留まり、以後は軍の嘱託(文民)として勤務を続け、朝鮮戦争勃発により軍籍を回復する。 朝鮮戦争終結時には陸軍大佐にまで昇進、1959年には陸軍少将、第2軍副司令官の重職に就いた。一方、内戦を終えた韓国内では李承晩が行った大規模不正選挙が原因で四月革命が勃発し、第二共和国体制が成立するも、議会の混乱によって一向に復興や工業化などが進まず、また軍内の腐敗も深刻化していた。これらの状態に対して1961年5月、軍の将官、将校、士官らの改革派を率いてクーデターを決行し、軍事政権(国家再建最高会議)を成立させた(5・16軍事クーデター)。形式的な民政移行が行われた後も実権を握り続け、自身の政党である民主共和党による事実上の独裁体制を形成し、第5代から第9代大韓民国大統領(在任、1963年 - 1979年)と大統領任期を5期に亘って務め、権威主義体制による開発独裁を推し進めた[7]。 独裁政権下では日本の佐藤栄作内閣総理大臣との間で日韓基本条約を批准して日韓両国の国交を正常化し、更にアメリカ合衆国のリンドン・ジョンソン大統領の要請を受けて1964年にベトナム戦争に韓国軍を派兵した。日米両国の経済支援を得て「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成した。大韓民国は1960年代から1970年代にかけての朴正煕執政下の高度経済成長により、1970年頃まで経済的に劣位であった同じ朝鮮民族の分断国家、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を経済的に追い越し、最貧国グループから脱した。 一方で統制的な軍事政権下では民主化などの運動は徹底して弾圧され、人権上問題のある拷問や政治犯の投獄なども行われた。対外政策においてはベトナム戦争に介入するなど一貫して親米政策を取ったが、米中国交正常化以後は独自核武装を推進した。しかし、そのため米国との関係が悪化し、カーター大統領の強い牽制を受けて失敗した。また日本との友好姿勢も国内の民族主義(左派ナショナリズム)から敵視される背景となった。政権後半には単独での核武装などの自主国防路線や、日本に滞在していた民主化活動家の金大中を諜報機関(KCIA)により拉致し国家主権を侵害する(金大中拉致事件)など強硬な政策を進めた。 1979年10月26日、大規模な民主化デモの鎮圧を命じた直後、側近である金載圭KCIA長官により、車智K大統領府警護室長共々暗殺された。享年61歳。
概要
略歴
1917年11月14日 - 生誕。
1932年3月 - 亀尾公立普通学校卒業
1932年 - 大邱師範学校入学 。
1936年 - 最初の結婚。
1937年3月20日 - 大邱師範学校尋常科を70人中69位で卒業。
1939年4月 - 満洲国陸軍軍官学校予科に入校[8]。
1942年10月 - 満洲国陸軍軍官学校本科に入校[8]。
1944年4月 - 満洲国陸軍軍官学校本科を卒業し、大日本帝国陸軍の陸軍士官学校の留学生課程に短期間派遣された[8]。
1944年7月 - 満洲国軍少尉に任官し、大日本帝国陸軍の関東軍に配属された[8]。
1945年8月 - 満洲国軍中尉で終戦を迎える。
1946年9月 - 国防警備隊士官学校入学(2期)。
1946年12月14日 - 国防警備隊士官学校卒業。国防警備隊少尉に任官(軍番10166番)。第8連隊付。
1947年2月 - 38度線警備中隊第4警備隊長。
1947年7月21日 - 第8連隊作戦参謀代理。
1947年8月14日 - 第1連隊中隊長。
1947年9月27日 - 大韓民国陸軍大尉。警備士官学校生徒隊長。
1948年8月21日 - 大韓民国陸軍少佐。
1948年12月28日 - 陸軍本部戦闘情報課長。
1948年 - 麗水・順天事件発生後、南朝鮮労働党員であることが粛軍運動で発覚し、逮捕される。
1949年4月 - 軍法会議で執行免除の無期懲役、軍籍剥奪され、情報局嘱託となる。
1950年 - 朝鮮戦争勃発により、大韓民国陸軍少佐戦闘情報課長を復命。
1950年 - 陸英修と再婚。
1950年9月15日 - 大韓民国陸軍中佐。陸軍本部輸送作戦指揮官。
1950年10月25日 - 第9師団参謀長。
1951年4月15日 - 大韓民国陸軍大佐。
1951年5月25日 - 陸軍情報学校校長。
1951年12月10日 - 大韓民国陸軍本部作戦教育局長。
1953年2月16日 - 第2軍団砲兵司令官。
1953年5月9日 - 第3軍団砲兵司令官。
1953年11月25日 - 大韓民国陸軍准将。
1954年1月17日 - アメリカ陸軍砲兵学校留学。
1954年7月1日 - 第2軍団砲兵司令官。
1954年9月18日 - 教育総本部砲兵監兼砲兵学校校長。
1955年7月1日 - 第5師団長。
1957年3月20日 - 陸軍大学卒業。
1957年3月30日 - 第6軍団副軍団長。
1957年9月1日 - 第7師団長。
クーデターを指揮する朴正熙(左サングラス姿)(1961年5月18日)1958年3月1日 - 大韓民国陸軍少将。
1958年6月17日 - 第1軍参謀長。