朱元璋
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洪武帝 朱元璋

初代皇帝
洪武帝の肖像画(国立故宮博物院蔵)
王朝明
在位期間洪武元年1月4日 - 洪武31年5月10日
1368年1月23日 - 1398年6月24日
都城応天府
姓・諱重八(初名)→元璋
字国瑞
諡号開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝
廟号太祖
生年天暦元年9月18日
1328年10月29日
没年洪武31年5月10日[1]
1398年6月24日
朱五四(朱世珍)
母淳皇后陳氏
后妃孝慈高皇后馬氏
陵墓孝陵
年号洪武 : 1368年 - 1398年

朱標(皇太子、建文帝の父)永楽帝(3代皇帝)

洪武帝
各種表記
繁体字:洪武帝
簡体字:洪武帝
?音:Hongw? di
ラテン字:Hung2-wu3 ti4
和名表記:こうぶてい
発音転記:ホンウー ディ
英語名:Hongwu Emperor
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朱 元璋(しゅ げんしょう)は、の初代皇帝廟号は太祖(たいそ)。諡号は高皇帝(こうこうてい)。その治世の年号「洪武」から洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。
生涯
皇帝即位まで
少年期朱元璋、温和な有徳者として描かれている

末の天暦元年(1328年)の9月18日淮水ほとりの濠州鍾離県(現在の安徽省鳳陽県)にて生まれる[2][3]。父は朱五四(後に世珍と改名)、母は陳氏。兄が3人、姉が2人いる6人兄弟の末っ子だった[2][3]。五四の兄五一の家に4人の男子がおり、朱家で8人目の男子ということから朱重八と名付けられた(以後、煩雑となるので元璋で通す)[2]。母親は夢の中で仙人から赤い玉を授かって重八を妊娠し、彼が生まれると家全体が赤く光り輝き、近所の人々が火事と勘違いして家に集まってきたが、火事が起きてないので不思議な顔をして帰っていったという[2]

朱家は元は劉邦の出身地である江蘇省沛県に住んでいたが、元のはじめ頃に生活苦から句容に移る。しかし元璋の祖父初一は徭役の重さに耐えかねて??県へ遷る。ここである程度の暮らしを手に入れることに成功し、息子の五一と五四も一家を構えることができた。しかし初一死後は再び困窮するようになり、濠州霊璧次いで虹県 (中国語版)に遷る。この間に3人の兄が誕生し、鍾離県に遷ったところで重八が生まれた。このように朱家は流民と言ったほうが良いような貧農だった[4][5]

両親は幼い元璋を村の塾に通わせていたが、学費が続かず[6]、地主のもとに牧童として奉公に出されることになった[6][7]。幼い頃の元璋はガキ大将であり、牧童仲間の間で信望が高かった。ある時、腹を空かした元璋たちは我慢ができなくって地主の牛を1頭殺して皆で食べてしまった。満腹になった後、地主からのお仕置きを恐れて青くなった彼らだったが、元璋は自分が責任を取ると言って一人で地主のもとに赴き、地主から滅多打ちにされた[8][9]

貧しいながらも何とか生きていた朱一家であったが、至正四年(1344年)、元璋17歳の時に淮河一帯が酷い干ばつに襲われる。農作物は枯れてしまい、そこに蝗が来襲して緑の物を食い尽くして飢饉となった。さらに追い打ちをかけるように疫病が流行。父母と長兄はこの時に死亡した[10][11]。3人の遺体を埋葬した後、次兄は郷里に残り、三兄は他家に養子に出て、元璋は隣人のつてにより皇覚寺(現隆興寺 (中国語版)[12])という寺で小僧となることになった(2人の姉はすでに他家に嫁いでいた)。その後、兄弟が再び会うことはなく、これが今生の別れとなった[13][14]

しかし皇覚寺でも飢饉の影響は色濃く早々に食料が尽きてしまい、寺に入ってから2か月弱で食を求めて托鉢の旅に出ざるを得なくなった[13][15]。その様はほとんど乞食同然の悲惨なものであり、後年元璋はこのときのことを思い返して「身は蓬の如く風に逐われて止まるところなく、心は滾滾として沸騰する」と述べている[16][17]。濠州から始まって南の合肥、そこから西の六安光州固始・息州・羅山信陽汝州陳州・毫州・潁州と3年にわたって淮西地方(淮河の西)をほとんどくまなく回った[18][17]。長く苦しい旅であったが、この旅で得た知識・経験はそれまで狭い世界に住んでいた元璋の目を大きく開かせることになり、のちの争覇戦での大きな助けとなった[19][20][21]

3年後、元璋が21歳になった至正7年(1347年)に皇覚寺に戻り、再び僧侶としての修行に入る。後に部下となる徐達湯和と付き合いがはじまったのがこの頃である[22][23]
紅巾の乱

至正11年(1351年)、白蓮教徒の集団が各地で反乱を起こし、紅巾の乱が勃発した[24]。その中で皇覚寺は反乱軍に通じているという疑いがかけられて元軍から焼き討ちにされてしまった[25]。寺の焼け跡で元璋が自分の将来を占ってみたところ、紅巾軍への参加が大吉であると出たため[26]韓林児を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた郭子興のもとに身を投じた[27]。なおこのときに最初は間諜と間違われて殺されそうになったが、面構えが郭子興に気に入られて幕下に入ったという逸話がある[27]。朱元璋は郭子興の下でめきめきと頭角を現し[27]、郭の養女の馬氏を妻に貰った[27]。これが後の馬皇后である[28]

この頃に名を重八から元璋に変え[29]徐達[30]や勇猛で知られる常遇春[31]や後の謀臣の李善長[32]劉基[33]ら優秀な部下を獲得していった。朱元璋は李善長から「漢の高祖劉邦は農民から身を起こしました。度量広く殺人を好まなかったために皇帝となりました。公(元璋)は高祖を手本とすれば天下を統一できます」と言われた[32]1355年の郭子興の死後は郭軍団から離れて一独立勢力となり、翌年に集慶路(南京)を攻撃してこれを落とし[34]、ここを応天府と改名して本拠地に据え[35]、部下から推挙されて呉国公を名乗るようになった[36]
江南の統一張士誠

その頃、長江上流では西系紅巾よりのし上がってきた陳友諒が大漢国をうち立て、湖北から江西の一帯を支配していた[37]。また非紅巾勢力の張士誠も平江(蘇州)を本拠に大勢力を築いていた[38]。朱元璋を含めたこの3勢力で当時、中国で最も豊かであるといわれた江南の覇権を争うことになった[39]。至正20年(1360年)、陳友諒は大軍を率いて応天府の直ぐ側にある采石まで進軍し陣を敷いた[40]。その上で張士誠に使者を送り、共に朱元璋を挟み撃ちにするよう要請したが、張士誠は決断できず、陳友諒単独で元璋軍に攻撃を仕掛けた[41]。応天府では投降、首都放棄を主張する者まで現れるほど混乱したが、元璋は劉基の「陳友諒との決戦あるのみ」との意見を採用して決戦に挑んだ[42]。部下の康茂才が陳友諒の旧知であったので、偽りの内応の手紙を出して陳友諒の軍を引きずりこみ捕虜7000・軍艦数百を鹵獲、さらに大漢国勢力圏の安慶などを占領する勝利を挙げた[43]。さらに翌至正21年(1361年)にも陳友諒が攻撃を仕掛けてきたが、これも撃退して大漢国の領土を大きく奪った[43]

至正22年(1362年)に旗揚げ以来の部下である邵栄と趙継祖が元璋暗殺を企んで発覚するという事件が起きている。元璋は彼らの処刑をためらったが常遇春に諌められて泣く泣く処刑した[44]。この事件を期に元々峻厳であった元璋軍の内部統制は厳しさを増した[45]。至正23年(1363年)、東系紅巾軍の総帥とされていた小明王韓林児が張士誠の軍に攻められて危機に陥っていた。名目上の主君である韓林児を救うために元璋は自ら軍を率いてこれを救出。部下の勧めもあって皇帝の御座を用意して韓林児を推戴しようとしたが、劉基の強い反対により取りやめ、韓林児を応天府から?州に移した[46]

元璋が韓林児救出で留守にしている間に陳友諒は艦隊を立て直し、60万の大軍を載せて元璋軍統治下の南昌を攻撃してきた。応天府に帰還した元璋は南昌へと進発、この知らせを聞いた陳友諒は南昌の囲みを解いて、東の?陽湖で元璋軍と激突した(?陽湖の戦い[47]。戦いは友諒軍優勢に進み、元璋軍は敗色濃厚となった。この状況を打開するため元璋は船に枯れ草と火薬を満載して火を付けて友諒軍の軍艦に突っ込ませた。これにより湖は火の海となり、友諒軍の軍艦は焼け落ち、兵士たちが多く焼け死んだ[48]。さらに翌日に友諒軍を打ち破ったことで友諒は?陽湖からの脱出を図ったが、元璋軍が出口を抑えていたのでこれと交戦。この戦いの最中に陳友諒が流矢に当たって戦死したため友諒軍は総崩れとなり、元璋軍の大勝となった[49]。残党は武昌へと逃れるも翌年にこれも降伏させて大漢を完全に滅ぼした[50]

翌至正24年(1364年)、朱元璋は呉王を名乗った。同じ頃、張士誠も呉王を名乗っており、両者は江南の覇権をかけて激突した[50]。朱元璋は至正25年(1365年)に淮東・至正26年(1366年)8月に浙西と張士誠側の要地を一つ一つ落とし[51]、同年11月に張士誠の本拠蘇州を攻撃。長きにわたる包囲戦の末、翌年の至正27年(1367年)に蘇州は陥落。張士誠は陥落直前に自殺を図ったが元璋軍の兵士に捉えられる。しかし護送の途中で再び自殺を試みて果てた[52]

蘇州陥落前の至正26年の冬に小明王韓林児を応天府に迎えると称して部下を派遣したが、その途上でわざと船を転覆させて韓林児を殺した[53]。この時点で元璋にとって韓林児に利用価値は残っておらず、むしろ秩序の構築に邪魔な存在となっていたのである[54]。同時に元璋は紅巾軍を「賊」と明言し、白蓮教邪教として非難するようになった[54]。そしてそれまで使っていた大宋国の元号龍鳳を捨てて翌1367年を呉元年とした[55]
北伐

張士誠を滅ぼした時点で朱元璋の呉以外の勢力として、浙江には海賊上がりの方国珍・福建には陳友定、西の四川には陳友諒と同じく西系紅巾軍から別れた明玉珍がいた。しかしいずれも呉に対抗できる勢力ではなく、朱元璋の次なる目標は北に数十万の軍勢を要する元軍を追い落とすことになった[56]


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