札幌郡(さっぽろぐん)は、北海道(石狩国)石狩支庁管内にあった郡。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。 蝦夷征討が盛んであった飛鳥時代から平安時代初期にかけて、札幌郡域内(現在の江別市)では江別古墳群が築かれた。ここからは須恵器などの副葬品が出土し、その構造も胆振国千歳郡(現・恵庭市)の茂漁古墳群や北東北の末期古墳と同様の群集墳で、現在確認されているものの中では日本最北の古墳である。また、2011年4月北海道大学構内で同様の古墳が発見[1]された。なお、斉明天皇のころ阿倍比羅夫が蝦夷を討ち後方羊蹄(しりべし)に政所を置き郡領を任命して帰ったと『日本書紀』にあり、これを札幌や江別に比定する説[2]もある(#外部リンクも参照。参考:奄美群島の歴史#古代)。 江戸時代の札幌郡域は西蝦夷地に属し、松前藩によって石狩十三場所のうち下記の八場所が開かれ、交易の中心や藩の出先機関として置かれた運上屋では、住民の撫育政策としてオムシャも行われた。 江戸時代後期になると、文化4年国防上の理由から札幌郡域は公儀御料(幕府直轄領)とされた。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び公儀御料となり庄内藩が警固をおこなった。同年、篠路神社の前身の若宮八幡が、安政3年には発寒神社の前身の稲荷社が創建されている。その他、安政年間には本願寺札幌別院の前身の西本願寺札幌出張所(別名・薄野別院)や札幌元村の本龍寺などが建立された。 また後志国小樽郡の銭函から札幌郡を経て胆振国千歳郡に至る札幌越新道(別名・千歳新道。銭函 - 現在の札幌市内は国道5号、札幌市内 - 千歳は札幌本道・国道36号の前身)も 箱館奉行によって開削[3]され、小樽場所請負人・恵比須屋半兵衛は銭函 - ホシポツケ間、石狩場所請負人・阿部屋博次郎はホシポツケ - 島松間、勇払場所請負人・山田文右衛門は島松 - 千歳間の工事を手掛けた。このとき、幕命により志村鐵一と吉田茂八が豊平川の渡し守となっている。 慶応2年になると、美泉定山によって定山渓温泉が開かれ、また札幌元村が開村する際幕臣・大友亀太郎によって大友掘(後の創成川)が開削されている。札幌元村では慶応年間に本龍寺境内の妙見堂が建立された。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲し札幌郡が置かれた。
郡域
札幌市中央区・北区・東区の各一部、白石区・厚別区・豊平区・清田区・南区・西区・手稲区の各全域
北広島市の全域
江別市の大部分(石狩川以北の篠津・中島・八幡・美原を除く)
歴史
郡発足までの沿革
ハッシャブ場所 - 石狩川(現・茨戸川)左岸、発寒川合流地付近。(現・札幌市北区)
シノロ場所 - 石狩川(現・茨戸川)左岸、篠路川
ナイホウ場所 - 伏古川上流付近。(現・札幌市東区)
上サッポロ場所 - 豊平川流域。(現・札幌市)
下サッポロ場所 - 豊平川流域。(現・札幌市)
上ツイシカリ場所 - 石狩川左岸、豊平川(現・世田豊平川)合流地付近。(現・江別市など)
下ツイシカリ場所 - 石狩川左岸、豊平川(現・世田豊平川)合流地付近。(現・江別市など)
郡発足以降の沿革北海道一・二級町村制施行時の札幌郡の町村(1.豊平村 2.江別村 3.札幌村 4.篠路村 5.琴似村 6.手稲村 7.藻岩村 8.白石村 9.広島村 *:札幌区 紫:札幌市 青:区域が発足時と同じ市町村)
明治2年8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、石狩国および札幌郡が設置される。