.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}本間(ほんま) 雅晴(まさはる)
Masaharu Honma
防暑衣を着用した本間雅晴
生誕1887年11月27日
日本・新潟県佐渡郡畑野町
(現:佐渡市畑野)
死没 (1946-04-03) 1946年4月3日(58歳没)
フィリピン・マニラ首都圏近郊ロスバニョス
本間 雅晴(ほんま まさはる、1887年(明治20年)11月27日 - 1946年(昭和21年)4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲一等。陸士19期恩賜・陸大27期恩賜。
太平洋戦争においてフィリピン攻略戦を指揮した。英国通の人道主義者であったことは連合国にも知られていたが、バターン死の行進における部下の行為の責任を問われて戦後銃殺刑に処された。 本間賢吉の長男として新潟県佐渡郡畑野町(現:佐渡市畑野)に生れる。佐渡中学を経て陸軍士官学校に進んだ。1907年(明治40年)、陸軍士官学校(19期)を恩賜(歩兵科2位)で卒業[1]。1915年(大正4年)には陸軍大学校(27期)を恩賜(3位)で卒業[2]。1933年に歩兵第1聯隊長となるまで、下記の経歴に見られるように、実戦部隊の指揮をした経験がなかった。 太平洋戦争において、第14軍司令官としてフィリピン攻略戦を指揮した。当初の戦況は順調で、第14軍はマニラ市の占領に成功する。マニラ進駐にあたり、将校800名をマニラホテルの前に集めると、1時間に渡り「焼くな。犯すな。奪うな。」を徹底し、違反者は厳罰に処すると訓示を行った[3]。バターン半島では米比軍の頑強な攻撃を受け多数の損害を出し攻勢が停滞する(第一次バターン半島の戦い)。結果、大部隊の増援によりバターン、コレヒドール島は陥落した(第二次バターン半島の戦い)。 一方、敵将のダグラス・マッカーサーは日本軍に追い詰められ、自らが捕虜になりかねない状況にまで追い込まれていた。フランクリン・ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを嫌っていたが、万一マッカーサーが戦死したり捕虜になるようなことがあれば国民の士気に悪影響が出ると考え、マッカーサーとフィリピンのマヌエル・ケソン大統領にオーストラリアへの脱出を命じた。マッカーサーは部下を置き去りにしたまま家族を連れてパイナップル畑の秘密飛行場からB-17でオーストラリアへと飛び立った。 マッカーサーがコレヒドール島を脱出した後、日本軍はバターン半島を占領し米比軍の約7万6千名を捕虜としたが、オドンネル基地に移送する時に、移送計画の不備により多数の捕虜が死亡した。
経歴
マニラ・バターン進撃時の様子