本野一郎
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本野一郎本野一郎 ロシア大使時代

本野 一郎(もとの いちろう、1862年3月23日文久2年2月23日) - 1918年大正7年)9月17日)は、明治大正外交官政治家である。法学博士子爵
来歴

肥前国佐賀久保田徳万村生まれ。11歳で渡仏し、3年間パリで学ぶ。横浜の小学校を卒業後、東京外語学校へ進学。フランスへの留学を果たす。一度はリヨン大学で学ぶものの、途中で学費が続かなくなり帰国[1]。18歳で横浜貿易商会に入社し、リヨン支店に赴任。務めの傍ら、富井政章梅謙次郎とともに再びリヨン大学で法学を学び、法学博士の学位を取得。特に梅謙次郎とは同じ下宿で暮らし、同時に学位を得た[2]

フランス滞在が8年ほど過ぎたころ、外務大臣だった大隈重信に誘われ帰国し、陸奥宗光外務大臣の秘書官となる。同時に、帝大などで国際法を教える。その後、ベルギーフランスロシア公使を経て、ロシア大使に就任。10年に渡るロシア駐在中の功績から子爵が授けられ、寺内内閣外務大臣へと出世したが、胃癌を発病し辞職、57歳で亡くなる。[2]
人物

フランスの銀行家で富豪のアルベール・カーンと家族ぐるみの交友があり、しばしばカーンの南仏の別荘でバカンスを楽しんだ[3]
家族

父は読売新聞創業者の本野盛亨。弟に化学者早稲田大学教授の本野英吉郎京都帝国大学教授の本野亨建築家本野精吾がいる。妻は、野村靖の娘で、万里小路正秀男爵(万里小路正房八男)の元妻だった久子(1868-)。長男の本野盛一(1895-)も外交官(外務省情報部第二課長、子爵)[4]。孫に元駐フランス大使の本野盛幸がいる。
年譜

1873年 単身フランスパリに留学[2]

1876年 帰国し、東京外国語学校入学[2]

1880年 横浜貿易商会入社[2]

1881年 フランス・リヨン大学法学部入学[2]

1889年 法学博士の学位を授与され、帰国[2]

1890年 外務省翻訳官[5]

1893年 法学博士(帝国大学)、法典調査会委員[2]。久子と結婚

1895年 長男・盛一誕生

1896年 ロシア公使館一等書記官[5]

1898年 ベルギー公使[5]

1901年 フランス公使[5]

1905年 3月1日奉天会戦に際し、フランス外務大臣テオフィール・デルカッセを通じて講和の打診を受ける

1906年 ロシア公使。日露戦争後の日露協約締結に尽力

1907年9月14日 男爵となり勲一等旭日大綬章受章

1908年5月 ロシア大使

1916年

7月14日 子爵となる

10月9日 外務大臣寺内内閣)に就任


1917年 ロシア革命に対しシベリア出兵を強硬に主張[6]


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