本田 延三郎(ほんだ のぶさぶろう[要検証 – ノート
]、1907年7月11日 - 1995年3月18日)は、日本の演劇・映画プロデューサー。北海道函館市生まれ。1925年、函館商業学校卒業[1]後、プロレタリア演劇運動に入る。新協劇団をへて、戦後は、俳優座などの経営に関わる。1971年、演劇プロデュースの五月舎設立[1]。1976年、第6回日本新劇製作者協会・協会賞[2]、1981年、多年にわたる演劇プロデュースの業績に対して、第16回紀伊國屋演劇賞特別賞[3]を受賞。作家の青木笙子は実子。
略歴
1927年、商業学校の先輩だった八木隆一郎を頼って上京する。
1928年、村山知義らの東京左翼劇場に、劇作家志望の研究生として入団。先輩に滝沢修らがおり、同期生に小沢栄太郎、松本克平がいた。
1929年2月、日本プロレタリア劇場同盟(後の日本プロレタリア演劇同盟)が結成され、数度の逮捕の間、書記長を務める。
1934年、東京左翼劇場が中央劇場と改称した後、同年6月解散すると、同年9月に結成された新協劇団に入団する。
1935年10月、『テアトロ』16号に戯曲「海と投票」を発表。
1937年3月、『テアトロ』32号に戯曲「漁夫納屋」を発表。
1949年、新劇系俳優の映画出演の窓口を一本化するため新劇協同社を設立[1]。
1950年、赤字により新劇協同社を解散[1]。
1952年、青年俳優クラブ(後に劇団青俳)設立に参加[1]。社長となる。
1970年、劇団青俳退社。
1971年、演劇プロデュースの五月舎設立[1]。
主なプロデュース・企画作品
映画 プロデュースした映画「日の果て」の一場面
『日の果て』(八木プロ=青年俳優クラブ、1954年)
『億万長者』(青年俳優クラブ、1954年)企画
『米』(東映東京、1957年)
『純愛物語』(東映東京、1957年)企画
『裸の太陽』(東映東京、1958年)企画
『素晴らしき娘たち』(東映東京、1959年)企画
『秘密』(東映東京、1960年)企画
『乾杯!ごきげん野郎』(東映東京、1961年)企画
『若者たちの夜と昼』(東映東京、1962年)企画
『路傍の石』(東映東京、1964年)企画
『武士道残酷物語』(東映東京、1963年)企画
『廓育ち