本田宗一郎
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伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2018年7月)

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アサヒグラフ』1955年新春倍大号より
生誕 (1906-11-17) 1906年11月17日
日本 静岡県磐田郡光明村(後の天竜市、現在の浜松市天竜区
死没 (1991-08-05) 1991年8月5日(84歳没)
日本 東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院[1]
国籍 日本
教育二俣尋常高等小学校
配偶者本田さち
子供.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

本田博俊(長男)

本田勝久(二男)

尾形恵子(長女)



父:本田儀平

母:本田みか

業績
成果本田技研工業の創業者

本田 宗一郎(ほんだ そういちろう、(1906年明治39年〉11月17日 - 1991年平成3年〉8月5日)は、日本実業家技術者。輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者。位階正三位
経歴『財界』1964年新年特大号より

1906年(明治39年)11月17日、静岡県磐田郡光明村(現・浜松市天竜区)で鍛冶屋をしていた本田儀平と妻・みかの長男として生まれる。光明村立山東尋常小学校(現・浜松市立光明小学校)の在校中に自動車を初めて目にしたほか、アート・スミス曲芸飛行を見学するため、遠く離れた浜松町和地山練兵場まで自転車を三角乗り[2][3][注釈 1]で訪れ、飛行機を初めて目にしている。

1919年(大正8年) - 二俣町立二俣尋常高等小学校(現・浜松市立二俣小学校)入学。

1922年(大正11年) - 高等小学校卒業、東京市本郷区湯島(現・東京都文京区湯島)の自動車修理工場「アート商会」(現在のアート金属工業)に入社(当時の表現で丁稚奉公)。半年間は、社長の子供の子守りばかりであった。

1924年(大正13年) - 千葉県津田沼にあった伊藤音次郎の飛行学校へ入るが、それを知った父に猛反対され一ヶ月半で退校。その後、学校よりカーチスのエンジンを払い下げてもらい、それにアメリカ製フレームを付けてレース用車両を製作。洲崎の飛行場でテストしたところ時速100qを記録したと自身で語っている[4]

1928年(昭和3年) - アート商会に6年勤務後、宗一郎ただ1人だけが社長の榊原郁三からのれん分けを許され、浜松市にアート商会浜松支店を設立して独立。

1935年(昭和10年) - 小学校教員の磯部さちと結婚。

1936年(昭和11年) - 全日本自動車競走大会多摩川スピードウェイの第1回大会)に、フォードに自作のターボチャージャーをつけたレース用車両(ハママツ号[5]で弟の弁二郎[注釈 2]とともに出場するが事故により負傷、リタイアを喫する。

1937年(昭和12年) - 自動車修理工場事業を順調に拡大、「東海精機重工業株式会社」(現・東海精機株式会社)の社長に就任。エンジンに欠くべからざる部品としてピストンリングに目をつけるが、経験からだけではどうにもならない学問的な壁に突き当たり、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、3年間金属工学の研究に費やす。

1939年(昭和14年) - アート商会浜松支店[注釈 3]を従業員の川島末男に譲渡し、東海精機重工業の経営に専念する。

1942年(昭和17年) - 長男・博俊(後の「無限」代表取締役)誕生。豊田自動織機が東海精機重工業に出資、自らは専務に退く。

1945年(昭和20年) - 三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入る。

1946年(昭和21年) - 10月、浜松市に本田技術研究所 (旧) 設立。39歳の宗一郎は所長に就任。

1948年(昭和23年) - 二男・勝久誕生。本田技研工業株式会社を浜松に設立。同社代表取締役就任。資本金100万、従業員20人でスタート。原動機付き自転車を考案して二輪車の研究を始める。

「本田技研工業(昭和23年設立)」の東京進出について、当時金融取引をしていた静岡銀行浜松支店へ具体的な構想を持ち資金的援助を期待して訪れた。応対に出た静岡銀行の融資審査部長へ本田宗一郎が東京進出に多大な夢や期待をプレゼンしたところ、「東京進出なんて、貴方、会社を潰す気か?」と1つ1つ数字を挙げながら、当時新興の中小企業だった本田技研工業がいかに中途半端な会社かを説明され、これに激高した本田宗一郎が「貴様に俺の何が判るか!! 2度とお前んとこには頼まん。」と捨て台詞まで吐き、銀行を飛び出した。本田技研工業はこの出来事が切っ掛けで静岡銀行との取引を解消し、現在に至るまで取引が行われていない。

1949年(昭和24年) - のちにホンダの副社長となる藤沢武夫と出会い、共にホンダを世界的な大企業に育て上げる。ホンダの社史については本田技研工業#沿革の項目を参照

1961年(昭和36年) - 藤沢とともに「作行会」という財団法人を設立。若手研究者や学生に対して匿名で奨学金を交付[注釈 4]した。

1970年(昭和45年) - ホンダ・N360を運転中に死亡したドライバーの遺族から殺人罪で告訴される[6]

1973年(昭和48年) - 中華人民共和国を訪れた帰国直後の会見で、本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任することを発表。


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