本田多聞
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本田 多聞
プロフィール
リングネーム本田 多聞
本名本田 多聞
ニックネームアマレスの神様
原人
赤鬼
身長188cm
体重130kg
誕生日 (1963-08-15)
1963年8月15日(60歳)
出身地神奈川県横浜市
所属フリー
スポーツ歴レスリング
トレーナージャイアント馬場
デビュー1993年10月8日
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獲得メダル
日本
男子 レスリング
レスリングアジア選手権
金1983 テヘランフリー100kg級
銅1992 テヘランフリー130kg級
全国高等学校選抜レスリング大会
金1980フリー75kg超級
金1981フリー75kg超級
全日本学生レスリング選手権大会
金1982フリー100kg級
金1983フリー100kg級
金1983グレコローマン100kg級
金1984フリー100kg級
金1984グレコローマン100kg級
金1985フリー100kg級
金1985グレコローマン100kg級
全日本レスリング選手権大会
金1983フリー100kg級
金1984フリー100kg級
金1985フリー100kg級
金1987フリー100kg級
金1988フリー100kg級
銀1989フリー100kg級
金1990フリー130kg級
銀1991フリー130kg級
金1992フリー130kg級

本田 多聞(ほんだ たもん、1963年8月15日 - )は、日本男性プロレスラー。元レスリング選手、元陸上自衛官。フリーランス。血液型B型。

神奈川県横浜市出身。土浦日本大学高等学校日本大学卒業。
来歴
レスリング選手

1964年東京オリンピックへの出場歴があるカヌー選手、本田大三郎の子として生まれる。プロサッカー選手、本田圭佑の実父とは、従兄弟の間柄にあたる。

父から「レスリングで優勝できなければ大相撲」へ入門させると脅され、必死にレスリングの練習に励んだ。中学時代から自衛隊の練習に参加するなど、早くからレスリングの素質を見出され、日大在学時にロサンゼルスオリンピックレスリング・フリースタイル100kg級で5位入賞(高校・大学の同窓に小林孝至がいる)、その後自衛隊体育学校に特体生で入校[1]

当時から異色な人物像で知られており、杉浦貴が後年述べるところによると「兵隊やくざ」と呼ばれていた。3度のオリンピック出場や全日本選手権8度優勝など日本レスリング史上、最高の実績を持つ。当時を知る関係者が「多聞さんが普通に練習をしていたら、オリンピックでメダルぐらい楽に取れていた」というほどで、ある種天才肌である。その技術力の高さから「アマレスの神様」と呼ばれた。
プロレスラー

自衛隊体育学校では、バルセロナオリンピックが終わったら1等陸尉に昇進し、レスリングをやめて原隊復帰する辞令が下りることになっていた[1]。しかし本田はそれを拒否し、1993年全日本プロレス入団。同年10月8日、大分県立荷揚町体育館大会でテッド・デビアス相手にデビュー。

プロレス転向後、「プロレスの技術を習得するために」とレスリングの技術を封印し、ヘッドバットを多用するスタイルを身につけた。本田自身が述べるところでは、「同じラケットを使う競技でも、テニスバドミントンみたいに違う」ものだと言う。しかしデビューから数年後の試合中、ボディスラムで倒した相手に対し、側転から倒れ込み式ヘッドバットを入れるという、彼にしては珍しいアクロバティックな技を披露したことがあるが、そのぎこちない動きに客席から大きな笑いが起こり、タッグパートナーの三沢光晴も堪えきれず屈伸するフリをして必死に笑うのを隠そうとした程の技であった。後に全日本プロレス中継の総集編番組でこの場面が紹介され、三沢は「僕も体操やっていたからわかるんですけど、アレまるっきり(側転をする)意味が無いんですよ。プロレス入ってすごい一番おかしかった。」と語ったほどである。しかし、稀にレスリング技術を披露し、U系レスラーをレスリング技術で寄せ付けなかったこともある。

デビューした当時の新入団選手紹介の時はスポーツ刈りだったが、後に長髪を振り乱したヘアスタイルとなった。その姿を福澤朗が「原人」と表したことからニックネームとして定着した。だがプロレスラーでは珍しく、インタビューにおける一人称に「私」を用いることや、プロレスノア中継での解説などで垣間見えるように、素性はインテリである。現在は総髪がトレードマークである。

井上雅央とコンビを組み、タッグで活躍する。プロレスリング・ノア移籍後、GHCタッグチャンピオン秋山準齋藤彰俊組に挑んだが惜しくも敗れ、それをきっかけに長年組んできたタッグを解散する。

度重なる故障で膝の皿が無く、従って膝に爆弾を抱えていることから満足な練習も出来ないが、「残りのレスラー人生をシングルにかける」と宣言し、2003年当時のGHCヘビー級王者小橋建太に挑戦を表明する。この頃からレスリングの技術の封印を解き、回転地獄五輪シリーズを開発する。何度かの査定試合、挑戦者決定戦の末、挑戦権を得た。結果として敗れはしたが、小橋に熱い気持ちが伝わり、その後、小橋とタッグを組み、GHCタッグ王座を獲得するなどの活躍をする。リングイン・アウトの時、お互いにロープを開け合うなど信頼・絆の深さを見せる。2007年12月の小橋の復帰戦で解説を務めた際には、試合中にもかかわらず涙を流した。

プロレス界の同期は志賀賢太郎。年齢は一回りほど違い、リング上では志賀にGHCタッグ王座の挑戦権争いに負けた際、「今日ほどプロレスをやめたいと思ったことはない」と言うほどのライバルであるが、お互いの信頼は非常に強い。これは志賀が欠場中、親身になって見舞っていたことで「兄者(あにじゃ)」と慕われたことや、2005年には、志賀の復帰戦の対戦相手を務めたことで分かる。「復帰試合は本田さんにやってもらいたい」と志賀が直訴したほど。本田自身も「志賀が帰ってきてくれたことが我がことの様に嬉しい」とコメントしている。また、志賀のオリジナルホールド「志賀絞め」は本田と志賀の共同開発で、本田も使用することがある。

ノアでは若手選手のコーチ役もしていた。小川良成と二人で、道場で若手の育成に励んでいた。日本テレビのスポーツニュースで育成場面が放送されたが、高いテイクダウン力とグラウンド力をみせていた。

2009年12月末日付で「年間報酬保障フリー選手契約が満了」[2]となりノアを退団、フリーランスとなった。

その後、自ら経営するレスリングスクールの傍ら、メジャー・インディー問わず他団体へ参戦。

泉田純至菊地毅とともにチーム「頑」(かたくな)を結成。
オリンピックでの成績

1984年ロサンゼルスオリンピック フリースタイル100kg級 5位入賞

1988年ソウルオリンピック フリースタイル100kg級 2回戦敗退

1992年バルセロナオリンピック フリースタイル130kg級 2回戦失格

タイトル歴
全日本プロレス


第64代・第68代アジアタッグ王座(防衛1回 パートナーは泉田純→防衛3回 パートナーは井上雅央

あすなろ杯争奪リーグ戦第3回大会優勝
決勝で大森隆男をダイビング・ヘッドバットで破る
プロレスリング・ノア


第6代・第12代GHCタッグ王座(パートナーは小橋建太
防衛記録は2回→0回
アパッチプロレス軍[3]


第8代WEWタッグ王座(防衛1回 パートナーは丸藤正道


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