本庄(ほんじょう)は摂津国菟原郡の現在で言う兵庫県神戸市東灘区東部から芦屋市西部にかけて存在した荘園。今日、本庄地域と言えば旧・本庄村域である青木、北青木、深江北町、深江本町、深江南町、深江浜町、本庄町を指すが、本来の本庄(本荘)は田辺・北畑・小路・中野・森(後の本山村域)・三条・津知(現・芦屋市域)・深江・青木の九ヶ村から構成され、本庄村となったのはそのうちの深江と青木それに山路荘
(やまじのしょう)の西青木村の三ヶ村である。北を本山地域、西を魚崎地域、東を芦屋市と隣り合う。東側に高橋川西側に天上川という2つの水系を有するが、これらは先述の二つの天井川よりも扇状地は貧弱である。高橋川については特筆すべき事に人為的に河流を曲げて西から東に流す事で条里制に対応した「横川」と呼ばれる区間があり、現在では要玄寺川1本であるが、改修で区間が短くなる以前は複数の川筋を横川に吸収して、六甲の急斜面を流れ抜けるこのあたりの河川にしては不自然な程下流で支流を合流させている。
南は大阪湾であり、高橋川河口に位置する芦屋川と住吉川の作る扇状地に挟まれて凹んだ海岸線をしており、遠浅な海域は漁港としても栄えた。現在では工業化が進み、沖に造成された人工島神戸東部第四工区(深江浜町)には工場が立ち並ぶ。
北の現在本山町となっている六甲山はその最高峰も含め本庄九ヶ村の所有していた本庄山である。この山は神戸市の背山市有化政策により買い上げられ、北西端の一部は灘区六甲山町北六甲1314番地へ移管されている。 本山村、芦屋市となった村については詳説を譲り、以下は旧本庄村の各大字の状況を記す。 深江北町、深江本町、深江南町と人工島の深江浜町、そして国道2号以南を本山町森・中野と合わせてまとめた本庄町からなる。 古くは灘五郷中の魚崎郷に属する酒造地にして、海岸深く入り江を為す漁港であった。しかし、浜は遠浅で船の停泊には向かなかった。この浜は琴の浦と呼ばれる土地の一つであり、津守が設けられ、明治13年頃まで浦役場があった。米穀、薪墨、小麦、素麺の集散地として明治には青木と合わせて五十石ないし百石船が二十余あったが、これらの産業が衰退して、大正10年には深江1隻・青木2隻となっている。[1] 旧神楽新田(神楽町)の深江文化村など須磨や塩屋ほどでないにせよ白人の居住が多かった。 戦後は金属機械工業 青木と北青木の東部3分の2の地域。 「おうぎ」と呼んでいるが正しくは「おおぎ」で、旧仮名遣いでは文字通りに「あをぎ」とつづり「オーギ」と読ませる。 地名の由来は保久良神社の祭神椎根津彦神 『摂陽群談』に言う「東西二村」のうちの西側の村であり、二つの荘園に分かたれた青木村の山路荘側がこれに当たる。本山南町にある福池小学校の名前の由来となった福池は、西青木の最北端にある福池または福井池と呼ばれた溜め池である。
区域
深江
青木
西青木
歴史
本庄地域(東灘区東南部)では深江北町の小路大町遺跡(弥生)、北青木遺跡
律令制においてこの地域は菟原郡の葦原郷ないし葦屋郷と呼ばれた郷に属した。
正和4年(1315年)、兵庫島の関所を巡る六波羅北方探題北条時敦の使い襲撃事件で本庄の入道五郎・大蔵丞ら8名逮捕。両人には悪党関所と注記。(「籠置悪党交名注進状案」東大寺文書)
応仁元年(1467年)7月、応仁の乱において西軍方の大内政弘が兵庫津に上陸し、8月3日、本庄山にて細川軍と交戦(同10月10日「大内政弘感状」三浦家文書)。
永正8年(1511年)5月、鷹尾城(現・芦屋市域)主瓦林正頼の舎弟らが「本城」に討ち入り、家屋を破却、寺庵70余を壊して退却。(瓦林正頼記)
天文24年(1555年)頃から芦屋荘・西宮社家郷と境界論争が勃発、永禄3年(1560年)11月11日には「三好長康裁判状」(吉田善八郎氏所蔵文書)が出されるも、江戸時代にまで争いは続き、寛延3年(1750年)裁判で決着。これが現在の神戸・芦屋・西宮3市の表六甲における境界となった。
近世?近代にかけての主な産業は農業・漁業・素麺製造・酒造。特に酒造は焼酎作りが盛んで、魚崎や御影から原料となる清酒を入手した。酒税が見直されて酒造が振るわなくなると酢や味醂の醸造に切り替わり、愛知からマルカンの本社工場が移転してきて酒蔵を再利用し、昭和63年(1988年)六甲アイランドへ移転するまで深江を拠点とした。