本庄 栄治郎1963年近影
生誕1888年2月28日
京都西陣
死没1973年11月18日(85歳没)
京都府京都市
国籍 日本
研究機関京都帝国大学
日本経済史研究所
大阪商科大学
上智大学
大阪府立大学
龍谷大学
研究分野日本経済史
経済思想史
母校京都帝国大学法科大学
学位経済学博士(京都帝国大学)
受賞文化功労者(1965年)
テンプレートを表示
本庄 栄治郎(ほんじょう えいじろう、1888年(明治21年)2月28日 - 1973年(昭和48年)11月18日[1])は、日本の経済学者。専門は日本経済史、経済思想史。学位は、経済学博士(京都帝国大学)。大阪商科大学第2代学長。京都大学・大阪府立大学名誉教授。1948年日本学士院会員、1965年文化功労者。
昭和期に多数の学者を送り出し日本経済史研究の権威として知られた。 1888年、京都西陣に生まれる[2]。第三高等学校を経て、1913年京都帝国大学法科大学政治学科卒業[3]、同大学院に進学、生家の生業である西陣機業の研究を行い戸田海市、内田銀蔵に師事した[4]。1914年に『西陣研究』、1916年に『江戸幕府ノ米価調節』が京都法学会より公刊されている。 1916年に同法科大学講師、1918年助教授、1919年京都帝国大学経済学部[5]助教授、1923年教授。同年「徳川幕府の米価調節」により京都帝国大学から経済学博士の学位を取得[6]。学内においては経済学部長、大学附属図書館長を歴任し経済史講座を開設時から退官までの20年にわたり担当した[7]。江戸期を軸に経済・財政史の実証的な研究、解明に努め米価・常平倉・農村・人口・流通・交通など近世経済の根幹をなす問題ごとに大冊を著した。また経済思想史研究の分野においては同時代の開拓者でもあり本多利明研究の第一人者であった。 1933年京都帝国大学の隣接地に門下の黒正巌らと共に日本経済史研究所を設立し代表理事に就任[8]、後進の育成に尽くした。1935年同研究所設立に参画した黒正、菅野和太郎らと当時学校騒動の起きていた浪華高等商業学校を昭和高等商業学校(現:大阪経済大学)として再建[9]。1947年には法人理事長も務めた。日本経済史研究所も戦後大阪経済大学の付属機関となり、国内における経済史研究の拠点のひとつとして業績を残している。黒正、政治家に転じた菅野の他に松好貞夫、江頭恒治、大山敷太郎、堀江保蔵、黒羽兵治郎、宮本又次らの門下も各大学で経済史を講じた[10]。 1942年に京都帝国大学を退官し旧制大阪商科大学第2代学長に就任(- 1946年)。同大学退官後も上智大学文学部教授(1951- 61年)、大阪府立大学[11]経済学部教授(1955- 63年)、龍谷大学経済学部教授(1965- 69年)を歴任した。1948年に京都大学名誉教授、1963年に大阪府立大学名誉教授。 幸田成友(東京商科大学教授)の推薦で明治から昭和半ばまでの大阪市史の編纂や監修を手がけた。1955年1月8日、皇居での講書始の儀において金田一京助、亀山直人とともに進講者を務めた。進講題目は「西洋経済学の伝来」であった[12]。
経歴
栄典