本庄村_(兵庫県武庫郡)
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ほんじょうむら
本庄村


本庄村章
制定年不詳
「本庄」の字を図案化したもの

廃止日1950年10月10日
廃止理由編入合併
本庄村・本山村神戸市
現在の自治体神戸市
廃止時点のデータ
日本
地方近畿地方
都道府県兵庫県
武庫郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
面積1.85 km2.
総人口13,538人
『東灘区25年』、昭和25年10月1日)
隣接自治体神戸市芦屋市武庫郡本山村
本庄村役場
所在地兵庫県武庫郡本庄村字青木三百二十六番地
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度43分19秒 東経135度17分33秒 / 北緯34.72189度 東経135.29239度 / 34.72189; 135.29239 (本庄村)座標: 北緯34度43分19秒 東経135度17分33秒 / 北緯34.72189度 東経135.29239度 / 34.72189; 135.29239 (本庄村)

明治頃の小字
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本庄村(ほんじょうむら)は、明治22年(1889年4月1日から兵庫県に存在したで、当初菟原郡、後武庫郡に属した。

阪神電気鉄道の開通により都市化が進み、宅地化と工業地化の両方が進行した。昭和2年(1927年)3月神戸都市計画区域へ編入され、昭和25年(1950年10月1日神戸市に編入されて東灘区の一部(本庄地域)となった。
地理条里制の水路と言われる横川が西から東に流れる。

海岸沿いの平坦な土地であり、最高2m突半。

河川は北の本山村から流れ出た横川が西から東に流れ、大字深江の西北部で四ツ松川、串田川を合わせて、深江の西方で高橋川と呼ばれて海に入っていた。本山村岡本の大谷川の下流西川が魚崎村との西の境を為していた。

昭和初期に行われた河川改修により、横川は廃川とされて高橋川が本流となり、大谷川は天上川の支流として繋げられた。

その他津知川や安馬場川、精道村(後の芦屋市)との境を為していた傍示川などの極小河川があった。
産業
漁業

農商務省の明治27年(1884年)の調査『水産事項特別調査』では深江の漁業者42戸144人・水産加工業7戸32人(乾イワシ中心)。1903年に深江浦漁業組合・青木浦漁業組合設立。員数は1910年の『兵庫県統計書』によると深江76人、青木37人。深江はイワシ地曳網漁業とハゼ建網、青木はイワシ地曳網・アサリ漁業・ハマグリ漁業をしていた。
酒造

近世には灘五郷のうち上灘東郷(魚崎郷)に属し、最盛期には青木・深江の醸造高は二万石に及んだ。しかし灘で行われた水車精米はこの地区では行われず、足踏み精米であったために品質がよくなく、東京以外の地方での販売を主とせざるを得なかった。

更に酒税の増加と価格の下落、防腐剤や唐辛子を使用したり水を加えて石高を増加させるなどで販売不振を招き、青木では廃業が続発した。1896年の酒造税の改則により止めをさされ、1900年頃には青木の酒造は全廃した。[1][2]それに対し、深江では酒造が続けられた。
焼酎・酢

灘五郷の酒粕を元にした焼酎の醸造も盛んであった。最盛期には40の醸造家が2500石を製造していた。これも1896年の酒造税の見直しにより衰退。1892年には名古屋の清酢醸造家笹田伝左衛門が青木の寺田一郎右衛門の酒蔵を買い入れ、川島銀太郎を代務人として翌1893年から酢の醸造を始めた。商号は「丸勘」で、後に「マルカン酢」と改めた[2]
素麺

この地方産の素麺は「灘目素麺」「上方素麺」として江戸に運ばれ、本庄村では代表的な産業であった。天保年間に青木の木村重左衛門が大和三輪素麺の製法を伝えたことが始まりである。

しかし労働力の不足、競争の激化などで日清戦争を境に急激に減少した。

大正10年(1921年)頃には青木・西青木に若干の製造家を残すのみとなった[1]が、昭和5年時点で7350貫、価額6550円で、武庫郡では抜きん出ていた[3]。昭和期の『兵庫県管内工場一覧』には青木の薩谷製麺工場(明治2年創業)がみられる。
歴史
成立

本庄村は1889年に青木・西青木(魚崎村外三ヶ村戸長役場)・深江(深江村外三ヶ村戸長役場)の各村と横屋・津知各村の飛地と田中村の飛錯地を合わせて成立した。村名は県の方針で荘園名など地域全体を表す古い名称があれば拠ることとして、旧荘園名の本庄(本荘)とした。なお本来の本庄の範囲には西青木村は含まれておらず、芦屋市本山地域東部に跨る。

詳細は不明だが、成立時には利害対立があったようで、当初郡長は深江・青木の2村での新村を構想しており、1888年9月10日に両村の総代がこれを承認して、新村の役場を両村中央に置くことに決定した。しかし青木村は西青木村を合併することで北畑村(後の本山村の一部)管理下の溜池を本庄村管理にしたり、横川を西青木村内で直流させることで廃川とし堤防地の払い下げを受けるなどを目指したため、合併構想は一旦白紙化としてから再協議となり、結果3ヶ村合併と相成った。しかしこれが明らかになった後も役場は3ヶ村の中央か青木・深江の間かで議論があった(結局青木の深江との境界近くとなった)。本庄村成立後も深江はこれに納得していなかった。郡長が説得に当たったが、1892年12月12日付けで深江村総代が「県庁に出頭した上で村としての意見を述べたい」との願書を郡長へ提出していた。
都市化と別荘化

年世帯数人口
明治38年(1905年)4883021
明治42年(1909年)5723677
大正3年(1914年)8254027
大正9年(1920年)14046140
大正14年(1925年)17198089
昭和5年(1930年)19729437
昭和10年(1935年)228511141
昭和15年(1940年)285813737

元々本庄村は深江と青木の二ヶ所に中心があり、集落間や北側には耕地が広がっていた。しかし1905年明治38年)に阪神本線が開通し、深江駅と青木駅が開設された事により、仕事を求める労働者や海浜別荘地を求める富豪など村外からの移住者が急増して都市化が進行した。

1920年代になると深江の東南部、芦屋に隣接する神楽新田(のち神楽町)を中心として別荘・邸宅が並ぶ海浜住宅地となっていった。戦前には十数軒の外国人別荘が立ち並び、神楽町には深江文化村と呼ばれる洋館群が出現した。

これに対し阪神本線から阪神国道(国道2号)までの地域は区画整理がされたものの、宅地化の進行は戦後の高度成長期まで待たれる事となる。

1921年大正10年)に本庄村は工業地域(神楽町は除く)として神戸都市計画区域へ編入される訳だが、この時、本庄地域に馬蹄型の運河を掘って阪神国道と接させて一大集散地とし、掘削した土砂で深江の海岸を埋立てようという計画があった。この計画は北の本山村と合同の計画で、阪神間唯一の商工業地が目論まれたものの、莫大な工費がかかる事もあってか、実現はされなかった。

こうして深江東部は別荘地として、青木は工業地としての発展を見ることとなったが、本庄の宅地化は阪神間の他の地域と較べれば緩やかなものであった。

1938年(昭和13年)7月5日阪神大水害が発生。本庄村は深江・青木地区はほぼ全戸床上浸水の被害を受けた[4]

第二次世界大戦に入るとアメリカ軍による空爆を受けた。1945年(昭和20年)甲南工場が爆撃された際、また同年6月5日と8月6日に受けた空襲によって死者436名・負傷者225名が出、青木・深江地区の町屋・長屋や農家や漁師の家屋などの伝統建築の多くが焼失し、跡地には最初バラック、ついでモルタル塗りの簡素な木造建築が建てられた。その後国道43号敷設によって最も繁華な市街が立ち退きを受け、さらに平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災により数少ない伝統的建築が失われた。
船員教育詳細は「神戸商船大学」を参照

甲種実業学校として川崎汽船による私立川崎商船学校の設立が認められたのは大正6年(1917年)の事である。校地は大阪府浜寺から兵庫県明石までに至る大阪湾岸を巨細に調査の結果、北に六甲山を望む景勝地たる深江の海岸、高橋川河口西岸が選ばれた。


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