本山茂任
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本山 茂任(もとやま しげとう、1826年文政9年) - 1887年明治20年)8月28日)は、江戸時代土佐藩上士勤皇派武士。維新の志士。松山県参事春日大社下賀茂神社神職。通称は左近兵衛、のち只一郎。竜沢と号す。前諱は茂樹。板垣退助の親族にあたり、文武に秀で、坂本龍馬中岡慎太郎を厚く庇護したことで有名。坂本龍馬中岡慎太郎からの手紙なども伝存している。
来歴

1826年文政9年)、土佐藩士(馬廻格)本山茂養(伊平)の嫡男として高知城下に生まれる。母は五藤三郎右衛門正静の娘。

1830年(同13年)5月1日、江戸代勤を以って惣領御目見を仰せ付けられる。

1834年(天保5年)11月13日、亡父「茂養」の跡目を無相違下し置かれ相続する。国学鹿持雅澄に学び、また砲術田所寧親に学ぶ。

1853年嘉永6年)、土佐藩主山内豊信の側小姓となる。

土佐藩上士の中でも尊皇攘夷派の人物として知られており、乾退助谷守部佐々木高行らと独自の勤皇派閥を形成していた。

1856年(安政3年)、幡多奉行に任ぜられる。

1859年(同6年)、安芸郡奉行に任ぜられ、さらに海岸警護の為に砲台建設や練兵に尽力する。

1861年文久元年)、土佐藩主山内豊範の御側物頭役となる。

1862年(同2年)、藩仕置役(参政)の吉田東洋が暗殺された事件を機に豊範に扈従して上洛し、朝廷より土佐藩主あてに「国事周旋の勅諚」を賜う。茂任は、三条実美らの江戸下向を斡旋するため奔走した。

1866年慶応2年)、大目付(大監察)に任ぜられる。

1868年(同4年)1月、鳥羽・伏見の戦いが始まると、土佐藩は薩土討幕の密約に基づき乾退助を大司令として東征の為の藩兵迅衝隊を編成した。

同7日、徳川慶喜賊軍として討伐の勅が下ると、茂任は土佐藩への錦旗伝達者となり、京都を出発して土佐へ向かう。

錦旗紛失事件浮田可成・画、錦旗(赤地大和錦御旗)。日像と神号が書かれている。

1868年(慶応4年)1月11日、摂津国神戸三宮神社付近で、酔払ったフランス人水兵と備前岡山藩兵との間で衝突した事件(神戸事件)が勃発したため、神戸開港の祝事の為に停泊していた欧米6ヶ国(イギリスアメリカオランダフランスイタリア)の兵士が武装して神戸に上陸し、同1月11日?15日迄、外国人の混成部隊に占領されてしまっていた。

同月14日明け方、朝廷より高松松山両藩征討の勅と錦の御旗を携えた茂任ら土佐藩の重臣8名が、その事件を知らぬまま三宮神社の門前を通りかかり、占拠中の武装フランス兵に誰何を受けて、蕃語と意思疎通を行えないままにフランス兵に錦旗を櫃ごと奪われるという大失態が起きたが、土佐藩士中島信行や長州藩士伊藤博文らが仲介しフランス公使へ陳情、ようやく錦旗を取り返しを行い、無事に土佐迅衝隊に届けた。

維新後

維新後は新政府に仕え松山県参事を勤め、松山を日本百名山日本百景の一つであり、日本七霊山のひとつとされる霊峰石鎚山(石鉄山)に基づき、石鉄県と名付けた。1875年(明治8年)に退官し、その後は春日大社京都下鴨神社奈良大神神社などの宮司を勤め、1887年明治20年)8月28日、帰幽した。享年62。
家系

本山家は、清和源氏吉良氏の支流に出る。吉良宣玄の二男の次郎茂光が、土佐国長岡郡本山郷を本貫として氏と為し「本山伊典」と号したのを始祖とする。戦国時代には土佐七雄の一に数えられ、長宗我部氏吉良氏を攻め滅ぼしたが、のちに一条氏の助けにより長宗我部氏が復興するとそれに攻められ降伏、家臣となる。長宗我部氏の没落後、慶長19年(1614年山内一唯へ仕えて以降は、土佐藩の上士として優遇された。

         長宗我部国親 女子          
 
                            
   
 吉良茂光[1] 本山養明 本山茂宗 本山茂辰  本山茂慶 本山貞茂[2]  


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