本山哲
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この項目では、レーシングドライバーの本山哲について説明しています。同姓同名の音響監督については「本山哲 (音響監督)」をご覧ください。

本山哲
2010年モータースポーツ・ジャパンにて
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1971-03-04) 1971年3月4日(53歳)
出身地東京都
SUPER GTでの経歴
デビュー2005
所属MOTOYAMA Racing w/ Team LeMans
車番6
過去所属NISMO
MOLA
NDDP Racing with B-MAX
出走回数123
優勝回数16
ポールポジション9
過去参加シリーズ
1990-1995
1995-1997
1996-2008
1996-2004全日本F3選手権
全日本ツーリングカー選手権
フォーミュラ・ニッポン
全日本GT選手権
選手権タイトル
19982001
20032005
20032004
2008フォーミュラ・ニッポン

全日本GT選手権 (GT500)
SUPER GT (GT500)

本山 哲(もとやま さとし、1971年3月4日 ? )は、東京都出身のレーシングドライバー
プロフィール

身長 : 171cm

体重 : 62kg

血液型 : RH+O型

愛車 :
日産・GT-R日産・シーマ日産・フェアレディZ ロードスターメルセデス・ベンツポルシェ・911ターボ加藤大治郎が生前に所有していた車)/フーガY50Y51)/日産・エルグランド

経歴

両親がレーシングカートのサーキット場「サーキット秋ヶ瀬(埼玉県さいたま市桜区)」を経営していたことから、幼少時よりポケバイやレーシングカートに乗っており、少年時代にはポケバイの全国大会やレーシングカートのSL全国大会でも優勝している。1986年には全日本カート選手権にエントリーし、同年にA1クラス、1987年・89年にA2クラスのシリーズチャンピオンを獲得し、翌1990年には全日本F3選手権にて四輪レースにデビューした。

国内トップカテゴリーでは1998年、2001年、2003年、2005年のフォーミュラ・ニッポン(FN)および、2003年、2004年、2008年の全日本GT選手権(JGTC、現SUPER GT)・GT500クラスのシリーズチャンピオンを獲得しており日本を代表するトップドライバーの一人。その長年の活躍と大事なレースで特に見せる速さ、集中力、レースの支配から、「帝王」、「2代目日本一速い男」の異名を持つ(『SUPER GT+』より)。夫人は元レースクイーンの小寺雅子。

FNでの年間チャンピオン獲得後、複数のF1チームからのオファーがあったものの海外進出には消極的だったが[1]、2003年4月に幼馴染でもある親友・加藤大治郎(Moto GPライダー)がレース中事故死したことを機に積極的な海外進出を試みる姿勢に転換。同年中にワールドシリーズ・バイ・ニッサンのテストに参加したほか、10月のF1日本GPでは、ジョーダン・フォードから金曜日のテスト走行に出走するなど、機会があれば海外のレースに参戦したいとの姿勢を見せるようになった。なお、加藤の事故死以降、搭乗するレーシングカーには97年、98年に加藤が鈴鹿8時間耐久ロードレースに参戦した際の監督だった高橋国光が監督を務めたチーム国光のマシンと同様にMoto GPにおける永久欠番となった加藤のゼッケン「74」が記されたステッカーを貼付している。

実際2003年末から2004年初頭にかけて、ジョーダン等のF1チームと交渉を持つも契約締結には至らなかった。日本人ドライバーがF1に進出するためには、
海外におけるフォーミュラレースでの実績

トヨタホンダ等のサプライヤーとのコネクション

資金力(個人スポンサーの持込など)

が必要とされており、海外実績が非常に乏しく、日産自動車の開発ドライバーを務めていた本山は、F1に参戦中だったホンダやトヨタとの有力なパイプを持っておらず、レギュラードライバーの若年化も著しかったF1のシート獲得は非常に厳しいものであった。その状況下でもさらに日産とルノーの資本提携関係を基にルノーF1のシートを目指し、スペインヘレスサーキットで、ルノーのセレクションを受けた[1]。テストでは当時のレギュラードライバーであるフェルナンド・アロンソに匹敵するタイムを叩き出したものの、当時33歳となっていた本山の年齢なども含めて、ルノー側のニーズに合わず交渉は不調に終わった。また、思うようにチームから求められる持参金が集まらない現実もあり海外進出は成らなかった。

その後は国内レースに専念する方針に切り替え、前述のように2005年のFNと2008年のSUPER GTでチャンピオンを獲得した。また、この年の開幕戦において、ブノワ・トレルイエとのコンビでこの年からサーキットへとカムバックした日産・GT-Rのデビューウィンを果たし、その後シーズン3勝を挙げている。

2009年には、FNにエントリーしないこと(引退ではない)を自身のホームページなどで発表し、SUPER GTに集中することとなった。開幕戦ではGT参戦通算100戦目を迎え、またシーズン2勝を挙げ、最終戦までチャンピオン争いをしていたが最終戦のもてぎでトレルイエのドライブ中にタイヤバーストに見舞われマシンが損傷。シリーズ連覇を果たせなかった。

2010年は、この年に装着していたミシュランタイヤとのマッチングに苦しみ不調に陥った。さらに、チーム側が巻き返しを狙っていた第7戦富士では、直前に上陸した台風により富士スピードウェイ周辺の道路が被害を受け中止となったこともあり、未勝利に終わった。

2011年は、再び装着タイヤをブリヂストンに戻し、第2戦富士で勝利を挙げるが、それ以降2戦連続ノーポイントに終わり、同じGT-Rを駆るMOLA柳田真孝ロニー・クインタレッリにランキングで先行を許す。しかし、第7戦オートポリスでは予選12番手スタートから追い上げを見せて優勝。最終戦では、ポールポジションからスタートしたMOLAを5番手から追い、終盤に本山が柳田をかわしトップに立つとそのまま逃げ切って2連勝を飾り、本山自身は3年ぶりとなるシーズン3勝を記録することができたが、チャンピオンはこのレースで着実に2位を得たMOLAコンビの手に渡った。

2012年は、世界耐久選手権(WEC)参戦のために離脱したトレルイエに代わり、ミハエル・クルムと8年ぶりにコンビを組んだが、2年ぶりのシーズン未勝利に終わった。6月にはニッサンのデルタウイングを駆って久々となるル・マン24時間レースに参戦したが、自身のドライブ中に中嶋一貴に接触されリタイアに終わった。

2013年は、柳田とクインタレッリに譲るかたちで長年在籍したNISMOを離れ、関口雄飛を育成するためMOLAへ移籍してコンビを組む。

2014年は、WedsSports BANDOHに移籍した関口に変わり、柳田真孝とコンビを組む。本年は、予選、決勝ともに速さは見せるもののレース中に車体が炎上しリタイアするなど、GT-R勢の中でも不運なトラブルが続き、未勝利に終わった。

2015年も、前年と同じく柳田とコンビを組みGT500参戦。第3戦で2011年以来の優勝を果たすなど活躍をみせシーズン6位。

2016年、2017年はブランパン耐久シリーズ覇者の千代勝正がGT500にステップアップしコンビを組む。第5戦鈴鹿では千代が第4戦でクラッシュしたことにより高星明誠とコンビを組み3位表彰台を獲得する。

2017年の第4戦のSUGOでは、DENSO SARD LC500の平手晃平と最終ラップまで激闘を繰り広げ、雨が降ってきたことによってコースアウトしハーフスピン状態になった平手を、同じくコースアウトをしてコースに戻ってきた際に接触、結果として平手を助ける格好になり2位となったものの、レース後はSNS等でスポーツマンシップを称賛された。ただし、レース自体は満足のいくものだったものの、レース終了直後はやはり悔しかったとコメント。同年はこの2位が最高成績であり、シーズン12位という成績に終わる。

2019年、GT500から引退。2月の日産の体制発表記者会見で行われた引退セレモニーでは、師匠である星野一義や後輩ドライバーから花束が贈呈された。同年よりNISMOのエグゼクティブアドバイザーに就任しニッサン系チームをサポートする[2]

2020年はスーパーフォーミュラに参戦するBuzz Racing with B-MAXの監督を務める。またスーパー耐久にTAIROKU Racingの日産・GT-R NISMO GT3で参戦するとされたが、結局同チームが新型コロナウイルスの流行の影響で活動を休止したため、参戦は実現しなかった。一方で12月には、フォーミュラ・リージョナル・ジャパニーズ・チャンピオンシップ(FRJC)と全日本スーパーフォーミュラ・ライツ選手権(SFL)にスポット参戦。FRJCではチーム郷[3]、SFLではB-MAX RACING[4]からの参戦となる。

2021年はSUPER GTに復帰を果たす。Team LeMans with MOTOYAMA RacingからGT300クラスに参戦。チームランキングは22位となった。
1997年 全日本ツーリングカー選手権 最終戦

1997年、本山は全日本ツーリングカー選手権(JTCC)で中子修黒澤琢弥とチャンピオン争いを繰り広げていた。中子がポイントリーダーで迎えた最終戦のインターTEC富士)第2レースで、16周目のヘアピン進入時に本山のインを突いた中子がブレーキをロックさせ本山に接触、本山のマシンは損傷・スピンして順位を落とした。この接触でタイトルの望みが消えた本山は、中子に報復するため、1周のスロー走行の後、18周目の100Rでアウトから来た中子に体当たりする形でコース外へ押し出し、中子はコースアウト・クラッシュした。その後、本山はピットに戻りレースを終えた。レース結果は「リタイア」ではなく「失格」となった[5]

この件で中子に罰金5万円、本山に罰金50万円のペナルティが科せられ[6]、本山は後に行われたFN最終戦とJGTC GTオールスター戦への出場を鈴木亜久里と話し合った上、謹慎の意味で欠場した[7](FN最終戦の代役は道上龍[7]、JGTC GTオールスター戦の代役は土屋武士[8])。この際競技ライセンスの剥奪やレース界追放も検討されたが[9]、その才能を惜しんだNISMOやチーム・ルマンや鈴木亜久里の尽力により、何とか免れることとなった。モータージャーナリストの林溪清は著書「F1の秘密」内でこの事件について触れ、名指しはしなかったものの「このような選手にF1へ行く資格はない」と評している。

なお、本山と中子の当事者同士の間では、この件の直後にコントロールタワーで本山は中子と顔を合した際に謝罪しそれほどのわだかまりは無く、時を経て2020年には雑誌上で対談しこの最終戦の状況について述懐している[10]

本山は1999年フォーミュラ・ニッポン最終戦でも、ランキング首位のトム・コロネルの明らかな過失で接触し、チャンピオンの権利を失っているが、この時は激しい感情を相手にぶつけることはなかった[11]
レース戦績

1984年

SLカート全国大会・Aクラス優勝

地方選手権・NA2クラス(シリーズ6位)


1985年 - 地方選手権・NA2クラス(シリーズ3位)

1986年 - 全日本カート競技選手権・A1クラス(シリーズチャンピオン)

1987年 - 全日本カート競技選手権・A2クラス(シリーズチャンピオン)

1988年

全日本カート競技選手権・FKクラス(シリーズ6位)

JAPAN KART GP(決勝2位)

カート世界選手権・スーパー100クラス(決勝2位)


1989年 - 全日本カート競技選手権 A2クラス(シリーズチャンピオン)

1990年

全日本F3選手権(#98 浅田飴パッションRT33無限/ラルトRT33 MF204

日本グランプリ記念レース Panasonic F3 スーパーカップレース(#98 浅田飴パッションRT33無限/ラルトRT33 MF204)(決勝19位)

インターナショナルF3リーグ(#98 浅田飴パッションRT33無限/ラルトRT33 MF204)(決勝19位)


1991年

全日本F3選手権(TEAM TAKEONE #5 /ラルトRT35 MF204)(シリーズ6位)

インターナショナルF3リーグ(TEAM TAKEONE #99 /ラルトRT35 MF204)(決勝21位)

SUGO INTER FORMULA・VW GOLFレース(#98 浅田飴パッションGOLF)(決勝7位)

91'レース・ド・ニッポン・VW GOLFレース(#98 浅田飴パッションGOLF)(決勝6位)

SUGO INTER 500km・VW GOLFレース(#98 浅田飴パッションGOLF)(決勝DNF)


1992年

全日本F3選手権(#11 J-TRIAL ラルト 無限/ラルトRT35 MF204)(シリーズ8位)

フジテレビジョン日本グランプリレース記念 F3 スーパーカップレース(#11 BESTEX ラルト 無限/ラルトRT35 MF204)(決勝6位)


1993年

全日本F3選手権<Rd.5-7>(#12 DALLARA 無限/ダラーラF393 MF204)<Rd.8-10>(#12 DALLARA FIAT/ダラーラF393 FIAT)

SUGO耐久500kmレース(#33 BLITZ SUPRA/スープラ JZA80)(総合32位)


1994年

全日本F3選手権<Rd.1,7-10>(TEAM 5ZIGEN #50/ダラーラF393 3S-G)(シリーズ7位)

N1耐久シリーズ<Rd.1 スポット参戦>(#33 BLITZ SUPRA/スープラ JZA80)(決勝26位)

第11回SUGO 300km耐久レース(#11 レッツオ・BP・トランピオ・GTR/スカイラインGT-R)


1995年

全日本F3選手権(DOME RACING #6 ANABUKI・童夢・無限/ダラーラF395 MF204)(シリーズ2位・1勝)

全日本ツーリングカー選手権(#51 BPオイル・トランピオエクシヴ/コロナ エクシヴ ST202)

NICOS CUP 十勝24時間レース(#11 RAZO TRAMPIO GT/スカイラインGT-R BCNR33)(総合7位)


1996年

全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(FUNAI SUPER AGURI #56/レイナード95D MF308)(シリーズ10位)


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