本宮町_(和歌山県)
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ほんぐうちょう
本宮町
熊野本宮大社


本宮町旗本宮町章

廃止日2005年平成17年)5月1日
廃止理由新設合併
本宮町、中辺路町大塔村龍神村田辺市 → 田辺市
現在の自治体田辺市
廃止時点のデータ
日本
地方近畿地方
都道府県和歌山県
東牟婁郡
市町村コード30426-3
面積204.06 km2
総人口3,828人
2004年平成16年)9月30日)
隣接自治体中辺路町大塔村古座川町熊野川町十津川村
町の木イチイガシ
町の花ササユリ
町の鳥オオルリ
本宮町役場
所在地647-1792
和歌山県東牟婁郡本宮町本宮219
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度50分17秒 東経135度46分23秒 / 北緯33.83808度 東経135.77311度 / 33.83808; 135.77311 (本宮町)座標: 北緯33度50分17秒 東経135度46分23秒 / 北緯33.83808度 東経135.77311度 / 33.83808; 135.77311 (本宮町)
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本宮町(ほんぐうちょう)は、和歌山県南部にあった東牟婁郡に属した。

2005年平成17年)5月1日の市町村合併で、田辺市など4市町村と合併し、新市制の田辺市の一部となった。
概要

熊野本宮大社の神明町として、古代からの歴史を持つ、修験道や権現信仰の故地である。現在では、林業観光を主産業とする。人口は2000年平成12年)の国勢調査時に3,869人、面積は204.06km2

熊野本宮を初め、熊野参詣道熊野九十九王子跡などは、ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」の登録物件である。奈良県十津川村と接する県境の町でもあり、古来より大和国伊勢国より熊野本宮に到る参拝路の終点でもあった。
地理

紀伊半島の山中、紀伊山地の標高250m台より上に位置する。集落は250mから350m台に多い。北を果無山脈、南を大塔山系と二つの1,000m級の山脈に囲まれ、寒暖の差が烈しい。

熊野川が町の北東部から南東部を流れ、随所に滝を作る。古湯湯の峰温泉、熊野川支流の大塔川河原の川湯温泉そして渡瀬温泉が存在し、熊野本宮温泉郷として国民保養温泉地に指定されている。

町内最高点は標高1,122mの大塔山、町の南西部、大塔村との境に当たる。
隣接していた自治体

和歌山県

東牟婁郡 古座川町熊野川町

西牟婁郡 中辺路町大塔村


奈良県

吉野郡 十津川村


歴史

本宮は熊野本宮大社に奉仕し、また参詣者に宿を提供する神明町として発達した。本宮町の中心集落である本宮の名も熊野本宮大社に由来する。
古代

熊野本宮は、崇神天皇の頃成立したと『熊野年代記』には伝えるが、年代の確かな最初の記事は766年の物である。当時、本宮は熊野川、音無川、岩田川の合流する中州にあった(本宮大社旧社地・大斎原)。最初は紀伊国の地方の神社という扱いであったが、醍醐天皇の頃から朝廷の尊崇を受け始め、799年宇多法皇の行幸や延喜式への記載など、次第に重い扱いを受けるようになる。
平安時代

代々の朝廷の尊崇を集めたことにより、本宮の町もまた大社やそれを囲む数々の社とともに発展していった。熊野には本宮へ参る途上に九十九王子と呼ばれる神社群があり、参詣者が道中の無事と巡拝の成就を祈念した。それらのうち本宮町内には、参詣者が信仰の志を新たにしたと伝えられる発心門王子(本宮町三越)、本宮大社旧社地を遠望する伏拝王子(本宮町伏拝字茶屋)などがある。

院政期には、熊野への皇族をはじめとする貴紳の参拝が頻繁に行われ、これを熊野御幸と呼ぶ。平安中期から熊野三山(本宮・新宮・那智)は社僧である熊野別当が管轄するところとなった。伝承によると初代別当は孝霊天皇の時おかれたとあるがこれは疑わしい。正史では1090年白河上皇が行幸の折、熊野別当長快の上に検校をおいたとあるが、熊野別当の初見は、1000年で、そこに熊野別当として増皇という名の僧が登場している(『権記』)。京に住んだ熊野三山検校に対して、熊野別当は本宮に住み三山を管轄した。

本宮は熊野御幸の要であり、寄進によって社殿は拡充され、本宮もまた繁栄した。しかし、承久の乱1221年)での上皇方の敗北、上皇方に与した熊野別当家の衰退のために、熊野への行幸は1281年亀山上皇の行幸を最後として終わり、以後、参詣者の中心は東国の武士と有力農民に移ることになった。

熊野信仰の隆盛には本宮が阿弥陀如来と結び付けられたことも大きい。平安中期から鎌倉期にかけての阿弥陀信仰は熊野への崇敬とも結びついた。この熊野信仰から熊野誓紙に起請文を書く習慣が生まれ、熊野誓紙は熊野本宮の重要な収入源となっていく。熊野権現は貴族だけでなく武士の信仰も集めたのである。また伊勢神宮を庶人が参拝するようになると、伊勢と熊野を併せて参拝することも行われた。
戦国時代から江戸時代まで

だが、室町時代後期には被官の堀内氏におされ、その勢力は衰えた。その堀内氏も関ケ原の合戦で西軍についたため、領地を没収された。浅野長政が紀州和歌山に封じられると、本宮はその領地に入った。長政は本宮大社に社領1千石を寄進し、後に紀州に入った紀州徳川家もこれを踏襲した。紀州藩領となってからは、現在の本宮町は領主直轄領(本藩領)と家老水野氏の領する新宮藩領に分割され、1871年明治4年)廃藩置県に至った。
明治時代以後

廃藩置県により本藩領は和歌山県、新宮領は新宮県となり、同年11月、田辺県を加えて和歌山県として合同した。

1889年明治22年)に熊野川に洪水があり、熊野本宮大社も大きな被害を受けたため、1kmほど離れた現在の場所へ移転した。1890年明治23年)市町制施行により、三里村、本宮村、四村、請川村、敷屋村がおかれた。1956年9月30日、これらは本宮町として合併した。

いわゆる、田辺市を中心とする合併協議会が設置されるとこれに合流し、1年半の合併協議の末、田辺市、龍神村、中辺路町、大塔村、本宮町が、それぞれの自治体を廃止して新たに1市を新設する対等合併を行うことに合意した。2005年平成17年)5月1日に、本宮町を含む関係市町村が廃止され、田辺市が新設された。
沿革

1956年昭和31年)9月30日 - 三里村本宮村四村請川村および敷屋村の一部(大字小津荷・高山)が合併して発足。


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