この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "本多猪四郎"
ほんだ いしろう
本多 猪四郎
『キネマ旬報』1962年4月上旬春の特別号より
生年月日 (1911-05-07) 1911年5月7日
没年月日 (1993-02-28) 1993年2月28日(81歳没)
出生地 山形県東田川郡朝日村(現:鶴岡市)
血液型O型[1]
職業映画監督、脚本家
ジャンル映画、テレビドラマ
活動内容特撮など
主な作品
.mw-parser-output .hlist ul,.mw-parser-output .hlist ol{padding-left:0}.mw-parser-output .hlist li,.mw-parser-output .hlist dd,.mw-parser-output .hlist dt{margin-right:0;display:inline-block;white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dt:after,.mw-parser-output .hlist dd:after,.mw-parser-output .hlist li:after{white-space:normal}.mw-parser-output .hlist li:after,.mw-parser-output .hlist dd:after{content:" ・\a0 ";font-weight:bold}.mw-parser-output .hlist dt:after{content:": "}.mw-parser-output .hlist-pipe dd:after,.mw-parser-output .hlist-pipe li:after{content:" |\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-hyphen dd:after,.mw-parser-output .hlist-hyphen li:after{content:" -\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-comma dd:after,.mw-parser-output .hlist-comma li:after{content:"、";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-slash dd:after,.mw-parser-output .hlist-slash li:after{content:" /\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li:last-child:after{content:none}.mw-parser-output .hlist dd dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li li:first-child:before{content:" (";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li li:last-child:after{content:")\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist ol{counter-reset:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li{counter-increment:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li:before{content:" "counter(listitem)" ";white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dd ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li ol>li:first-child:before{content:" ("counter(listitem)" "}
『ゴジラ』[2]
『モスラ』
『キングコング対ゴジラ』
テンプレートを表示
本多 猪四郎(ほんだ いしろう[出典 1]、(1911年〈明治44年〉[6][5]5月7日[出典 2] - 1993年〈平成5年〉2月28日[出典 3])は、日本の映画監督。山形県[出典 4]東田川郡朝日村(現:鶴岡市)出身[9][14]。東宝特撮をはじめとする数多くの映画を演出した。
亥年生まれの四男であったことから「猪四郎」と命名された[出典 5]。名前の読みを「いのしろう」とした書が多く出版されており[17]、また本人もニックネームで「いのさん[10]」「いのしろさん」などと呼ばれることが多かったが、正しい読みは「いしろう」[出典 6]。その影響を受けたためか、海外の文献でもIshiroとInoshiroが混在している。また、自身のシンボルマークとして、台本などには「ゐ」と記していた[18]。
経歴ロケ地の国立科学博物館にて1965年
山形県鶴岡市湯殿村七五三掛、湯殿山注連寺一山本多龍傳院(ほんだりゅうでんいん)住職である父・本多芳寛と母・本多みよの末っ子として生まれる[9]。3人の兄と姉1人がいる[9]。
10歳の時に父親が東京都高井戸にある医王寺住職となるため上京し、杉並区立高井戸小学校に転校する[9][14]。その後神奈川県に引っ越し、攻玉社中学校に入学[9][14]。小学生時代より映画を愛好しており、観続けているうちに自身も映画を作る職業に就きたいと考えるようになった[19][9]。
1931年(昭和6年)に新設された日本大学芸術学部映画科の第1期生として入学[出典 7]。22歳の時に同大学の講師である森岩雄の勧めで映画研究会の金曜会に入会[出典 8]。さらに、森の誘いにより卒業目前の1933年(昭和8年)8月にPCL(東宝の前身)に入社し[出典 9]、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1934年(昭和9年)に大学を卒業[要出典]。山本嘉次郎や成瀬巳喜男の助監督につく[出典 10]。同期で山本門下の黒澤明や谷口千吉は親友である[11][10]。1939年(昭和14年)3月にはスクリプターの山崎きみ(本多きみ)と結婚[9][14]。入社後には3度徴兵された。
特に最初に入営した歩兵第1連隊では将校が二・二六事件を起こしたことから、事件後の部隊が満洲に送られてしまい[9]、通常2年で済む現役が長引いた。復帰後は軍に再召集され、日中戦争に従軍。終戦は中国で迎え[9][14]、半年間捕虜となっていた[17][9]。この間、本多の兄弟はすべて他界していた。1946年(昭和21年)、中国から引き上げてきた本多は汽車で帰郷中に原爆で壊滅した広島を目の当たりにし、強い衝撃を受けた[19]。
8年間も軍にいたため[出典 11]、山本門下の3人のうち最も古参だったにもかかわらず、監督昇進は黒澤(1943年『姿三四郎』)、谷口(1947年『銀嶺の果て』)に先を越される形となっていた[20][注釈 1]。1949年(昭和24年)、短編ドキュメンタリー『日本産業地理大系第一篇 国立公園伊勢志摩』で監督デビュー[21][9][注釈 2]。本作は日本で初めて、本格的な水中撮影が行われた[22]。1951年(昭和26年)、本多が40歳の時にようやく『青い真珠』で劇映画を初監督する[出典 12]。
『太平洋の鷲』以降円谷英二とのコンビで多くの特撮映画を監督した[出典 13]。1954年(昭和29年)の『ゴジラ』は全米で大ヒットを記録したため、一躍世界に名を知られる映画監督となる[出典 14]。本多自身も『ゴジラ』を監督していなければ全く違う人生を歩んでいただろうとしている[17]。なお、『ゴジラ』では真夏の海上ロケを敢行したが、巡視船の上で上半身裸となって撮影に挑んだため、日焼けしすぎて背中に水ぶくれが出来てしまい、後年もその名残の染みだらけであったという[25]。
1957年(昭和32年)の『地球防衛軍』はMGM配給、1958年(昭和33年)の『美女と液体人間』、1959年(昭和34年)の『宇宙大戦争』、1961年(昭和36年)の『モスラ』はコロムビア映画の配給、1962年(昭和37年)の『キングコング対ゴジラ』と1967年(昭和42年)の『キングコングの逆襲』はユニバーサル映画配給、1965年(昭和40年)の『怪獣大戦争』と1966年(昭和41年)の『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』はユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ配給で全米公開されるなど、担当した作品のほとんどが海外で公開された。なお、『キングコング対ゴジラ』では撮影中に斜面を30メートルも滑落してしまったが、負傷した腕を吊りながら撮影を続行したという。
しかしながら、プロデューサーの田中友幸からの評価は低く、1962年の『妖星ゴラス』の際に、「あなたの演出はおとなしすぎるという意見が多く、この作品の監督を任せるについても強い抵抗があった。その辺を十分に考えて返事をしてもらいたい。どうしても、そういう演出が出来ないというなら断ってくれていい。前々からそういう意見があって、私もそれには同感だ」(本多猪四郎の日記より)と辞退を勧められたという[26]。
1965年に他の監督に先駆けて東宝専属契約を解除されフリーとなり、1967年の『新婚さん』からはテレビシリーズの監督も行うようになる。『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』では、予算の都合などから本編・特撮1班体制となり、本多が特撮監督も兼ねる形となったが[24]、中野昭慶によれば実際には監督助手の中野が特撮を手掛けており、本多は子役と怪獣が絡む場面のみ担当したという[27]。東宝チャンピオンまつりで公開された過去の作品の再編集版は、本多自身が編集を行った[5]。
1971年(昭和46年)に東宝を正式退社。