この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "本多康紀"
凡例本多康紀
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕天正7年(1579年)
死没元和9年9月25日(1623年11月17日)
別名彦次郎(通称)
戒名雄山道策諦琳院
墓所静岡県掛川市の撰要寺
官位従五位下、伊勢守、豊後守
幕府江戸幕府
主君徳川秀忠→家光
藩三河国岡崎藩主
氏族本多氏
父母父:本多康重、母:石川家成の娘
兄弟康紀、次郎丸、紀貞、重世
妻正室:松平家清の娘
子忠利、吉平、紀利(三男)、大蔵、娘(桑山貞晴正室)
テンプレートを表示
撰要寺の本多家の墓。中央が康紀、右は父の康重、左は子の忠利の墓。静岡県指定史跡(撰要寺墓塔群)[1]。
本多 康紀(ほんだ やすのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。三河岡崎藩の第2代藩主。広孝系本多家2代。 天正7年(1579年)、徳川氏の家臣で三河岡崎藩初代藩主の本多康重の長男として三河田原で生まれる。 天正19年(1591年)、元服して徳川家康から偏諱を授かり康紀と名乗った。慶長6年(1601年)、従五位下、伊勢守に叙位・任官する。慶長16年(1611年)、父の死去により家督を継ぐ。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に参加し島野川と淀川の中洲から青屋口を攻撃した。戦後に豊臣氏と徳川氏の間で和議が結ばれると、松平忠明や本多忠政らと共に大坂城の堀埋め立て、石垣破壊の奉行を務めた。慶長20年(1615年)に和議が決裂して大坂夏の陣が起こると、前田利常の右翼方に陣取り、豊臣方の大野治房と戦い、武功を挙げている。 その後は岡崎城の修築に務めた。元和9年(1623年)、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の上洛に従って上洛したが、その後に病に倒れ、9月25日に死去した。享年45。跡を長男の忠利が継いだ。 正室 子女
生涯
系譜
松平家清の娘
本多忠利(長男)生母は正室
本多吉平
本多紀利
本多大蔵
桑山貞晴正室
脚注^ “ ⇒県指定文化財 史跡”. 掛川市. 2013年11月19日閲覧。
表
話
編
歴
本多氏岡崎藩2代藩主 (1611年 - 1623年)
本多家
本多康重1601-1611
本多康紀1611-1623
本多忠利1623-1645
本多利長1645
遠江横須賀藩に転封
水野家
水野忠善1645-1676
水野忠春1676-1692
水野忠盈1692-1699
水野忠之1699-1730
水野忠輝1730-1737
水野忠辰1737-1752
水野忠任1752-1762
肥前唐津藩に転封
松井松平家
松平康福1762-1769
石見浜田藩に転封
本多家
本多忠粛1769-1777
本多忠典1777-1790
本多忠顕1790-1821
本多忠考1821-1835
本多忠民1835-1869
本多忠直1869-1871
廃藩置県