本多勝一
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ほんだ かついち
本多 勝一
生誕 (1932-01-28)
1932年1月28日(92歳)
日本長野県
職業作家ジャーナリスト
影響を受けたもの今西錦司梅棹忠夫
影響を与えたものノンフィクション文化人類学民族学登山論、冒険論、日本語論、戦争責任論、環境問題など
受賞第12回菊池寛賞(1964年、のちに返却)
第11回JCJ賞(1968年)
第22回毎日出版文化賞(1968年)
ボーン・上田記念国際記者賞(1969年)
第3回大同生命地域研究賞特別賞(1987年)
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本多 勝一(ほんだ かついち、1932年[† 1]1月28日 - )は、日本新聞記者ジャーナリスト作家[1]。元朝日新聞編集委員[1]
経歴

長野県下伊那郡大島村(現在の松川町)に生まれる[1][† 2]

長野県飯田高松高校卒。高校3年次の担任はのちに日本古生物学会の会長を務めた鹿間時夫であった。同級に富永明夫がおり、後に本多の義兄となった[3]

本多には脳性小児麻痺の妹がいた。父は雑貨商を営んでおり、本多には薬科大学に進むことで薬局を加えた店の跡を継いでほしいと願っていた。本多は高校で木原均の講演に感銘を受け、京都大学で遺伝学を学びたいと考えた[4]ため、父と衝突した。結局、薬剤師の資格を取得すれば好きなことをやってもよいとの妥協案を受け入れ、千葉大学薬学部に進学。

1954年、千葉大を卒業して京都大学農学部農林生物学科へ1回生として入学、山岳部に入部[4]

山岳部の雰囲気はアルピニズムに傾倒しており、本多が心酔していた今西錦司西堀栄三郎らから始まる探検の伝統は引き継がれていなかった。本多は現役生や若手OBと「パイオニア・ワーク」(創造的な登山)について議論を重ねつつ、海外遠征を目論み、同志とともに岩村忍や今西、京大カラコルムヒンズークシ学術探検隊から帰還した梅棹忠夫大阪市立大学助教授)らの助言を受けた[5]。そうして山岳部二回生を中心にヒマラヤ遠征を計画したものの、若手OBの一部の反対は根強いものがあった。

本多らは梅棹に「煽動」され、まず探検家OBを講師とした「第1回探検講座」を5回にわたって実施[4]。講師は今西、中尾佐助川喜田二郎桑原武夫、梅棹、藤田和夫であった[4]。探検講座の最終回を終えた1956年3月2日の夜、同じく山岳部に所属していた高谷好一ら11人で日本初の探検部を創設[4]。初代顧問は今西、梅棹、中尾、藤田、川喜田、伊谷純一郎であり[4][† 3]、探検部長は今西の助言で芦田譲治に依頼した[5]

本多らは梅棹、今西、川喜田などの自宅を訪ねるなかで、とりわけ京都大学の近くにあった梅棹の自宅を頻繁に訪れた。梅棹は探検やフィールドワークのノウハウを情熱的に注ぎ込んだ。話題は多岐にわたり、談論風発の場となった。本多は、取材の方法や基本的なものの考えかたにおいて、生涯で最も深く強い影響を梅棹から受けた[4]

1956年、探検部で最初の海外遠征隊「東ヒンズークシ学術調査隊」を結成し、藤田和夫(大阪市立大学助教授)を隊長としてフォールドワークに赴いた。学生の隊員は本多と吉場健二の2名であった。京都駅には探検部や山岳部の関係者が集まり、今西の発声による「ヤッホー」の唱和で見送られた。その帰途、便乗していた貨物船が第一次南極観測に向かう『宗谷』とすれ違った。宗谷には副隊長で第一次南極越冬隊長となる西堀栄三郎が乗船しており、11月29日、無線ではじめて西堀と言葉を交わした。西堀は親友である今西への伝言を述べ、探検部が南極にも目を向けて実力をつけるよう助言した。

1957年、本多が隊長を務める京大探検部の3人でヒマラヤの6000m級処女峰シャハーンドクの登頂を試みたが、頂上まで100m余りの地点で敗退[† 4][6]

1958年、『知られざるヒマラヤ 奥ヒンズークシ探検記』(角川書店)を発刊。

1959年、朝日新聞社に入社[1]。同期に筑紫哲也轡田隆史らがいる[† 5]

1959年4月から1962年7月まで札幌勤務[8]。1961年には入社3年目にして『きたぐにの動物たち』を59回にわたって連載し、同年、角川新書から「朝日新聞北海道支社報道部編」として出版された[† 6][8][9]。序文を寄せた犬飼哲夫は本書を「いまだ記載されなかった人類の歴史の側面を語る新しい試み」であり、それが「成功をみたことは祝福に値する」と絶賛した[9]。当時、朝日新聞や小雑誌などに執筆した紀行文ルポルタージュは1979年に『北海道探検記』として発刊された[8][† 7]

1963年1月22日、愛知大学山岳部薬師岳遭難事故にて大スクープ[10]薬師岳の太郎小屋脇にヘリコプターで強行着陸し、本多が小屋の中を確認して報道したものであり、号外が発行された[10]

1963年の朝日新聞連載『カナダ・エスキモー』が注目を集め、つづいて1964年には『ニューギニア高地人』を連載、反響を呼んだ[11][12]。本多はベトナム戦争の取材に取り組みたかったが、一連の連載が好評を博したため、1965年には『アラビア遊牧民』を連載[11][12]。藤木高嶺とのコンビによるこれらのルポルタージュは「極限の民族」三部作とされ、文化人類学民族学にインパクトを与えた[1][13][14]


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