本場所
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本場所(ほんばしょ)は、公益財団法人日本相撲協会によって定期的に行われる大相撲の興行。力士にとっては技量審査の性質があり、本場所での結果に基づき番付の昇降や力士褒賞金の加算が行われる。本場所における取組は公式戦とされ、通算の成績などは本場所のものを採用している。
概要

1958年(昭和33年)以降は年6回の興行で固定されている(下表)。開催地の命名権名称は2018年(平成30年)時点のもの。

開催月正式名称[注釈 1]通称会場開催地初日定員
01月一月場所初場所両国国技館東京都墨田区第1もしくは
第2日曜日10816人(2016年)
03月三月場所春場所
大阪場所
エディオンアリーナ大阪
(大阪府立体育会館)
大阪府大阪市浪速区第2もしくは
第3日曜日7414人(2018年)
05月五月場所夏場所両国国技館東京都墨田区第1もしくは
第2日曜日
07月七月場所
名古屋場所ドルフィンズアリーナ
(愛知県体育館)
愛知県名古屋市中区第1もしくは
第2日曜日7448人(2022年)
09月九月場所秋場所両国国技館東京都墨田区第1もしくは
第2日曜日
11月十一月場所九州場所
福岡国際センター福岡県福岡市博多区第1もしくは
第2日曜日6976人(2022年)

東京の両国国技館で開催される一月場所(初場所)・五月場所(夏場所)・九月場所(秋場所)は総称して東京場所と呼ばれ、それ以外の場所で開催される三月場所(春場所・大阪場所)・七月場所(名古屋場所)・十一月場所(九州場所)は総称して地方場所と呼ばれる。

三月場所(大阪)[1]と七月場所(名古屋)[2]の会場では施設命名権が売却されており、主催者である日本相撲協会では上記のように施設命名権に基づく名称と正式名称を併記して使用している。施設名の扱いに関してはメディアごとに対応が分かれている。本場所のテレビ・ラジオ中継を行うNHK(日本放送協会) は本場所の会場名について正式名称のみを使用している[3]。一方、新聞報道などでは報道機関により施設命名権による名称を使用する場合[4]、正式名称を使用する場合[5]、両名称を併記する場合[6]に分かれている。近年の番付表では「エディオンアリーナ大阪」「ドルフィンズアリーナ」と記されている。

七月場所については愛知県体育館の老朽化に伴い、2025年からは愛知国際アリーナに会場を移転する予定[7]

両国国技館

エディオンアリーナ大阪
(大阪府立体育会館)

ドルフィンズアリーナ
(愛知県体育館)

福岡国際センター

江戸時代には本場所は各地で個別に行われており、力士は場所を主催する勧進元と自身の抱え大名の都合がついた本場所に個別に参加していた。その中でも三都(江戸・京都・大坂)の相撲がとくに盛んで、江戸で年2回、京都と大坂で年1回ずつ行われることが多かったが、天災や天候不順、不入りによる中止や打ち切りも頻発していた。江戸時代の川柳に「一年を二十日で暮らすいい男」というものがあるように、その当時は江戸の本場所が年に2回それぞれ10日のあわせて20日しかなかった[8]

明治時代になると各地の相撲集団は法人化して個別の力士を抱えるようになり、大正時代には相撲集団は東京と大阪に収斂し、それぞれ常設の国技館で年2回興行、さらに合同でも興行するようになる。昭和時代になると東西協会が合同して日本相撲協会となり、戦後には大阪・名古屋・福岡でそれぞれ興行を行うようになって現在に至る。

1場所は江戸時代から1909年(明治42年)1月場所までは晴天10日間興行だったが、1909年(明治42年)6月場所からは晴雨にかかわらず10日興行となり、昭和戦前から終戦直後の11日や13日等の時期を経て(詳細は取組#概要を参照)、現在は15日間連続で行われる。1日目は「初日(しょにち)」、8日目は「中日(なかび)」、最終日にあたる15日目は「千秋楽(せんしゅうらく)」と呼ばれる。初日は1場所15日制になって以降、昭和天皇崩御に伴い1日延期された1989年一月場所を除き、日曜日に設定されている。原則として初日は第2日曜日だが、3月・5月・9月・11月場所では日曜日が5週ある時は第3週から始まることもある。7月場所は夏巡業の期間確保のため6月から行われていたこともあり、現在も第1週から始まることがある。

番付は各場所初日の約半月前に日本相撲協会より発表される。1970年頃に、年末年始を挟む一月場所を除いては初日の13日前の月曜日と定められた。ほかのスポーツ行事の少ない曜日を選んだということである。例外として一月場所の番付発表については、直前が年末年始の期間に当たるため近年は前年12月下旬頃に行われている[9]。「本場所の一覧」を参照

本場所の土俵進行(土俵入りや力士呼び出しの順序)は奇数日目が東方から、偶数日目が西方からとなっている。
本場所の進行

本場所は毎日8:00頃、呼出が会場前に設営された高櫓から打ち出す寄せ太鼓で始まる。この後序ノ口から順番に取組が始まるが、3日目(新弟子が多い3月場所は2日目から)から中盤にかけては、その前に前相撲が行われる。

序ノ口、序二段三段目幕下と取組が進み、幕下の相撲が残り5番(幕下上位五番)になった時点で、十両力士の土俵入りが行われる。かつては幕下取組終了後に行われていたが、昭和40年代末のオイルショックの際に光熱費節減のため、土俵入り後の休憩時間省略を目的に時間が変更された。この時点で14:20頃になる。その後十両の取組に入るが、初日と千秋楽は十両残り3番を残して日本相撲協会理事長からの挨拶(協会御挨拶)が入る。

十両取組終了後の概ね15:50頃に幕内力士の土俵入り・横綱土俵入りが行われる。千秋楽では十両以下各段の優勝決定戦および優勝力士の表彰が行われる。土俵入り後は中入の休憩時間に入り、初日は賜杯優勝旗返還式が行われる。また、1・5・9月場所初日では優勝額除幕式、1月場所初日では年間最優秀力士の表彰式も行われる。2日目から12日目まで(以前は13日目・14日目にも行われていたが、14日目・千秋楽の取組編成は13日目・14日目の打ち出し後に行われるようになったため、時間的に不可能になっている。13日目の打ち出し後に14日目の取組編成を行うようになったのは2023年11月場所以降)は、時間に余裕がある時は翌日の幕内取組を紹介する「顔触れ言上」が行われる。幕内取組が半分消化したところで、時間調節のための小休止がある(17:00頃)。

幕内取組終了後に弓取式が行われ打出となり、1日の興行はすべて終了となる。時刻はこの時点で大相撲中継終了の18:00になるように調節されている。千秋楽は弓取式後に幕内最高優勝の表彰式(11月場所は年間最多勝表彰も、場所によっては先立って優勝決定戦)が行われるため、全日程が30分ほど繰り上がる。
電光掲示板について

大相撲の本場所における電光掲示板は、上下2段に四股名が入る欄があり、その上下に赤いランプがある。奇数日には上段に東方力士、下段に西方力士が、偶数日には逆に上段に西方力士、下段に東方力士が書かれる。電光掲示板には十両と幕内(中入後)(以前は幕下上位五番も)の取組が書かれ、最も左側には十両以上の休場力士の四股名が表示される。また近年では右側に決まり手も表示されるようになった。

本場所の進行に伴う電光掲示板の表示の変化としては、十両最初の一番から赤いランプの点灯が始まり、これから取組を行う両力士の赤いランプが同時に点灯する。勝負が決まると、行司が勝ち名乗りの声を上げると共に、この取組の勝者の赤いランプが点灯したまま残り、敗者の赤いランプが消灯し、次の取組を行う両力士の赤いランプが同時に点灯する。十両最後の一番の終了時は敗者の赤いランプが消灯するだけとなり、ここから幕内土俵入り・横綱土俵入り・中入りを挟んで、幕内最初の取組を行う両力士が土俵に上がるときにその両力士の赤いランプが同時に点灯する。そして結びの一番の終了時も、敗者の赤いランプが消灯するだけとなる。

電光掲示板の四股名等の文字を書くのは行司の仕事であり、手書きで書かれる。また電光掲示板を操作するのは世話人の仕事である。
かつて使われていた会場

東京 -
蔵前国技館1950年?1984年 1954年落成するまでは仮設国技館だった)

大阪 - 大阪国技館、(旧)大阪市中央体育館1986年に、大阪府立体育会館の全面改修工事のために1度だけ開催された)

名古屋 - 名古屋市金山体育館1958年?1964年 「会場は飛行機の格納庫を改造して建設されたが、空調がなかったため、室内でも猛暑の中で開かれ、支度部屋には氷柱が置かれ、中入りの時には場内に酸素の放出が行われた」と記録にある)

福岡 - 福岡スポーツセンター1957年?1973年)、九州電力記念体育館1974年?1980年[10]

1909年6月場所以前は回向院での晴天時興行の形を取っており、雨天中止となった場合その後2日続けて晴天とならなければ開始できない規則となっていた。戦前は戦時戦後の一時期を除き旧両国国技館が使われ、1927年から1932年までの地方本場所は大阪市京都市名古屋市福岡市広島市で開催の実績がある。第二次世界大戦中には軍による接収、空襲による被災、そして戦後アメリカ軍による接収で国技館が使用できずに後楽園球場(番付上の表記は「小石川後樂園球場」)や神宮外苑相撲場等で晴天時限定で開催、その後仮設国技館(当時の表記は「假設國技館」)時代を経て蔵前仮設国技館へと本場所開催地を移した。
場所ごとの逸話など
1月場所(初場所)

古くは1月場所は「春場所」と呼ばれた。
1953年に大阪場所が出来て年4場所制となった時には1月場所は「初場所」か「春場所」かで協会発表に混乱があり、騒動になった。後で当時責任者だった年寄楯山(元幡瀬川)の明かしたところでは、マスコミを利用した話題づくりだった。

この場所で大関横綱への昇進を果たした力士は多く、「祝儀場所」の異名もある。

中日8日目は天覧相撲になることが多い。特に平成31年初場所8日目における平成最後の天覧相撲において明仁天皇美智子皇后(いずれも当時)が退席するときに、自然発生的に観衆による万歳が行われた。

1989年の初場所(=平成最初の場所)は1月8日日曜日)に初日の予定であったが、昭和天皇の崩御の関係で翌日の1月9日月曜日)に変更。初日が日曜日以外の曜日に行われたのは戦後の15日制復活後、初めてのことであった。

マーガレットコミックスベルサイユのばら第13巻』(集英社)が2017年初場所の懸賞として掲出し、話題となった。

2016年琴奨菊から2021年大栄翔まで6年連続で初優勝が続いていた。2022年は優勝経験のある御嶽海が優勝し、初優勝が続いたのは6年で止まった。

名勝負


1933年8日目 関脇沖ツ海 - 別席男女ノ川
前年の春秋園事件で協会を脱退した力士の多くがこの場所に帰参してきたため、協会は通常の番付とは別に帰参力士のために「別席」の枠を設けたが、そのうちの一人である男女ノ川が横綱玉錦や大関武蔵山を破りただ一人全勝の快進撃。8日目に対戦した沖ツ海は付け人に「今日は戸板を持って迎えに来い」と命じるなど相当の覚悟で臨んだが、男女ノ川はそれを退け、そのまま11戦全勝で初優勝。

1939年4日目 横綱双葉山 - 前頭4枚目安藝ノ海
入幕2場所目の新鋭安藝ノ海が双葉山を外掛けで下し、双葉山の連勝が69で止まった。

1960年12日目 小結柏戸 - 前頭13枚目大鵬
新入幕で連勝する大鵬に、小結柏戸が「止め男」として当てられた柏鵬初顔合わせ。後の柏鵬戦とは逆に攻めまくる大鵬を、柏戸が逆転の出し投げで下した。

1964年千秋楽 関脇大豪 - 前頭13枚目清國
入幕2場所目の清國が14日目を終えて大鵬と共に14戦全勝の快進撃。同期の大鵬との優勝決定戦の期待がかかる中で千秋楽に大豪と対戦するも敗れ、結びで大鵬が柏戸に勝ったため優勝はならなかった。この場所綱取りがかかった大関栃ノ海は13勝2敗で優勝次点にもならなかったが、場所後に49代横綱に推挙された。

1965年初日 横綱大鵬 - 小結玉乃島
この場所から「部屋別総当たり制」が導入され、その初日の結びに同じ一門の大鵬と新小結玉乃島が初めて対戦し、玉乃島が内掛けで大鵬を破る波乱の幕開けとなった。

1971年千秋楽 横綱玉の海 - 横綱大鵬(優勝決定戦)
3場所連続で全勝で千秋楽を迎え、この場所こそ全勝優勝を目指した玉の海を大鵬が寄り切りで破り1敗で並ぶと、優勝決定戦では水入りの熱戦の末、再び大鵬が寄り切り、最後となる32回目の優勝。一方全勝どころか優勝を逃した玉の海は、その日の深夜に神宮外苑でランニングしているところを、部屋の打ち上げから帰宅途中の小結貴ノ花が目撃し、横綱の姿を見て自身の不甲斐なさを反省した。

1972年8日目 横綱北の富士 - 関脇貴ノ花
北の富士の外掛けを貴ノ花が爪先立ちで弓なりの体勢でうっちゃりを狙い、北の富士の右手が先についた。行司軍配は貴ノ花に上がったが、物言いの結果北の富士の右手は「かばい手」とみなされ、軍配差し違えで北の富士の勝ちとなった。貴ノ花の勝ちを主張した25代木村庄之助は責任を取り退職。

1972年千秋楽 前頭5枚目栃東 - 大関清國
この場所絶対本命と目された北の富士が不振で14日目に休場。14日目を終え3人が4敗でトップに並ぶ混戦で千秋楽を迎えるも、4敗だった福の花琴櫻が相次いで敗れ、結びで栃東が敗れると8人が5敗で並ぶ異常事態だったが、栃東は上手出し投げで清國を破り、15日制になってから最低となる11勝4敗の成績で幕内優勝を飾った。

1981年千秋楽 横綱北の湖 - 関脇千代の富士(優勝決定戦)
ウルフフィーバーの巻き起こった場所。14連勝の千代の富士を1敗で追う北の湖が吊り出しに破って決定戦に持ち込んだが、この時北の湖の左足首が悪いのを見破った千代の富士が上手出し投げで決定戦を制し初優勝。大関昇進も果たす。

2015年13日目 横綱白鵬 - 大関稀勢の里


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