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空襲の主力となったB-29戦略爆撃機による爆弾投下米軍の空爆予告の伝単[注釈 1]
日本本土空襲(にほんほんどくうしゅう)は、第二次世界大戦中に連合国軍が大日本帝国各都市や工場などに対して行った空襲である。
1944年(昭和19年)11月24日から本格化し、1945年春頃から本格的な戦略爆撃となり、大規模な無差別爆撃も実施された。主力となったアメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃機、B-24爆撃機により日本の主要都市は焦土と化し、史上初の核攻撃(日本への原子爆弾投下)も実施され、数十万人から百万人が死亡した。 日中戦争(支那事変)中の1938年(昭和13年)2月23日に当時は日本領外地だった台湾の台北松山基地にソ連空軍志願隊と中華民国空軍が共同で空襲を行い、民間人に若干の被害が出た。 1938年(昭和13年)5月20日に中華民国空軍のB-10爆撃機が九州に侵入し、反戦ビラを投下した。その後、日本軍は同年12月から重慶爆撃を開始した。 太平洋戦争における日本本土の初空襲は1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲だった。日本本土を航続距離内に収める長距離爆撃機と陸上基地をまだ持たなかったアメリカ軍は、航空母艦「ホーネット」などからなる機動部隊を日本本土東方海上に進出させて双発中型爆撃機のB-2516機を発進させ、東京、川崎、横須賀、名古屋、神戸などを爆撃し、中華民国軍支配領域へ脱出した。 その後、日本軍も6月と9月にオレゴン州に、伊号第二十五潜水艦の備砲による艦砲射撃と、艦載機によるアメリカ本土空襲を行った。 1943年(昭和18年)11月25日には中国大陸を発進した米中航空部隊が、台湾に対する新竹空襲を実施した。 太平洋戦争1941年11月、アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは秘密記者会見で、米領フィリピンの基地から日本都市を焼夷弾爆撃する構想を述べる[1]。日米開戦直前、アメリカ政府はボーイングに、まだ試験飛行もしていないB-29爆撃機を250機も発注し、真珠湾攻撃で発注数を倍加させ、翌1942年2月にはゼネラル・モーターズ、ノース・アメリカン、ベル・エアクラフトにも協力を求め1,600機の生産を命じた[2]。しかし、実現まで2年を要した[2]。 1942年に日本軍が焼夷弾によるアメリカ本土空襲を行うと、米軍も焼夷弾の開発に踏み切り[3]、1942年には投下後バラバラになって着地すると尾部からナパームを噴射しながら跳びはねるという強力な着火能力を持つM69焼夷弾が開発された[2]。M69を開発した国防研究委員会(NDRC)焼夷弾研究開発部門長で、スタンダード・オイル社副社長のラッセルは「軍需工場を爆撃する精密爆撃よりも焼夷弾による市街地絨毯爆撃を行うべきだ」と主張した[2]。 1943年のNDRC作成の情報部焼夷弾レポートでは「日本の都市はほとんどが木造住宅でしかも過密なため大火災がおきやすい、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災をおこし、住宅と混在する、ないしはその周囲にある工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法である」と報告された[2]。 1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本本土空襲計画を提出する。日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張し、焼夷弾の使用にも言及していた[4]。アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない[5]。 1943年2月に、日本都市の建築特性に適した爆撃戦略を練るためにアーノルドは、作戦分析委員会COAに目標の検討を依頼しており[1]、COAから1944年10月10日付で『極東における経済目標に関する追加報告書』が提出され、第一目標を航空産業、第二目標を都市工業地域、第三目標を機雷の空中投下による航行妨害としており、第二目標は本州六都市に対する焼夷攻撃であり、9月のCOA会議では六都市の住民58万4000人を殺した時に起こる完全な混乱状態の可能性が論じられた。戦略情報局長ウィリアム・マックガヴァンは心理的効果を主張し、日本の子供は火事に対する恐怖を刷り込まれているので焼夷弾はパニックと結びつきやすいので、地域爆撃を全面支持し、「地獄を引き起こせ。国中の日本人に参ったと言わせろ」と提案した。アーノルドはこの追加報告書を採択した[6]。 1943年8月、米英首脳がカナダのケベックでケベック会談を行い、中国を基地とするB-29の28機ずつの10編隊(逐次20編隊に増強)から始め、米英と戦っていたドイツの降伏から12か月以内に日本を屈服させることを目標にしたセッティング・サン計画がアメリカから提案された[7]。
経過
戦略爆撃の実施前
戦略爆撃の準備