本圀寺
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本圀寺


所在地京都府京都市山科区御陵大岩6
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度59分58秒 東経135度48分25.6秒 / 北緯34.99944度 東経135.807111度 / 34.99944; 135.807111座標: 北緯34度59分58秒 東経135度48分25.6秒 / 北緯34.99944度 東経135.807111度 / 34.99944; 135.807111
山号大光山
宗派日蓮宗
寺格大本山(霊跡寺院)
本尊三宝尊
創建年建長5年(1253年
開山日蓮
中興年1971年昭和46年)
中興伊藤日瑞
札所等洛中法華21ヶ寺
文化財経蔵(重要文化財
法人番号9130005002128

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本圀寺(ほんこくじ)は、京都市山科区御陵大岩にある日蓮宗大本山(霊跡寺院)の寺院山号は大光山。本尊三宝尊。六条門流の祖山である。
歴史
中世

寺伝によれば、建長5年(1253年)8月に日蓮鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂が本国寺(後の本圀寺)の起源という[1]。なお、松葉ヶ谷の草庵(法華堂)の所在地については複数の説がある。日蓮が伊豆国伊東(現・静岡県伊東市)への配流(伊豆法難)から戻った後、弘長3年(1263年)5月に法華堂は再興され、本国土妙寺と改称された[1]。寺では日蓮を高祖、弟子の日朗を二祖と位置づけている。

嘉暦3年(1328年)に、後醍醐天皇勅願所となっている。

本国寺が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)3月で、四祖日静上人の時である。日静は室町幕府初代将軍足利尊氏の母・上杉清子の弟で、尊氏の叔父であった。そのため、幕府からの支援もあり、日静は光明天皇より寺地を賜ると六条堀川に寺基を移転させた[2]。また、天皇から「正嫡付法」の綸旨も受けている。寺地は北は六条坊門(現・五条通)、南は七条通、東は堀川通、西は大宮通までの範囲を占めた[3]。以降も寺は足利将軍家の庇護を受けたほか、応永5年(1398年)には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている[3]比叡山延暦寺を御所の艮(北東・鬼門)とすると、本国寺は坤(南西・裏鬼門)に当たるため、皇室からも崇敬された。こうして本国寺は六条門流の祖山として隆盛を誇った。甲斐国久遠寺が「東の祖山」と呼ばれるのに対し、京都に栄えた本国寺は「西の祖山」と呼ばれるようになる。

文明14年(1482年)に、後土御門天皇の勅諚により「法華総本寺」の認証を受けている。

天文5年(1536年)の天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに焼き討ちされて焼失し、にある末寺の成就寺に避難した。天文11年(1542年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、本国寺は天文16年(1547年)に六条堀川の旧地に再建された。

永禄11年(1568年)、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。翌永禄12年(1569年)には本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される事件・本圀寺の変が発生した。本国寺はなんとか損傷を免れたものの、信長は本国寺の一部の建物を解体して二条御所(二条城)建築に用いることを決める。本国寺の一部の建物は取り壊され、それぞれの建築物は二条御所に運ばれて再組み立てされたという[4]。さらには屏風絵画などの本国寺の貴重な什器類までもが運び去られた。

天正13年(1585年)、豊臣秀吉により山城国菱川村(現・京都市伏見区)に朱印地177石が与えられた[3]。天正19年(1591年)、日重により求法檀林(学問所)が開檀される。同年、豊臣秀吉の命により本願寺造立のため、寺地のうち南側の二町を本願寺に割譲している。

加藤清正は当寺を篤く信仰し、開運門を寄進している。
近世

元和元年(1615年)に徳川家康は本国寺の寺領を安堵している[3]水戸藩徳川光圀が当寺にて生母久昌院追善供養を行うと、貞享2年(1685年)に光圀は自らの名から一字を本国寺に与え、本国寺は本圀寺と改称した[5]

正徳元年(1711年)には徳川家宣の襲封祝賀のため来日した朝鮮通信使の宿舎となっている。天明8年(1788年)の天明の大火では経蔵(現存)を除いた本堂や五重塔など伽藍を焼失する。

文久3年(1863年)には鳥取藩士による本圀寺事件が起き、また水戸藩主徳川慶篤に率いられた尊攘派藩士が駐屯し、皇室や徳川慶喜の警固に当たって本圀寺勢(本圀寺党)と呼ばれた。
近代

1872年明治5年)、学制発布により、求法檀林は廃檀した。1921年大正10年)、本圀寺は明徳女学校を設立。同校は京都市西京区に移転し、京都明徳高等学校となっている。

1941年昭和16年)、日蓮宗は顕本法華宗本門宗と合同して新しい日蓮宗となったが、その際に本末制度を解体した。そのため、本末解体により六百にものぼる本圀寺の旧末寺は離散し、混乱を招いたりした。

1969年(昭和44年)、宗門特選で札幌市本龍寺の伊藤日瑞住職が63世貫首に就任すると、係争中の訴訟の解決を図った。また、伊藤貫首のもとで本圀寺は六条堀川の旧地から京都市郊外の東山区山科(現・山科区)へ移転し、再興を期すこととした。移転先は琵琶湖第一疏水を挟んで天智天皇山科陵(御廟野古墳)のすぐ北側の地である。1971年(昭和46年)、山科移転第一期工事(本師堂など)が完成し落慶法要が営まれた。以後、第二期、第三期工事が順次完成し山容を整え、本圀寺は復興を果たした。後に68世久村日鑒貫首の発案により、当寺は金色の鯱や龍、仁王像に大梵鐘、その他金色ずくめの装飾を施した派手な寺院となったが、104世伊藤日慈貫首晋山後、旧に復されている。

山科移転以前の旧寺地は西本願寺の北側で、現在は本願寺聞法会館や本願寺駐車場となっている。しかし、本圀寺の山科移転後も松林院、瑞雲院、一音院、詮量院、了円院、勧持院[6]、松陽院、林昌院、本妙院、智妙院、本實院、真如院、了光院、智了院、智光院、久成院の塔頭16院は旧地に残り、五条通り南北の猪熊通沿いに所在している。


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