本圀寺
本圀寺(ほんこくじ)は、京都市山科区御陵大岩にある日蓮宗の大本山(霊跡寺院)の寺院。山号は大光山。本尊は三宝尊。六条門流の祖山である。 寺伝によれば、建長5年(1253年)8月に日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂が本国寺(後の本圀寺)の起源という[1]。なお、松葉ヶ谷の草庵(法華堂)の所在地については複数の説がある。日蓮が伊豆国伊東(現・静岡県伊東市)への配流(伊豆法難)から戻った後、弘長3年(1263年)5月に法華堂は再興され、本国土妙寺と改称された[1]。寺では日蓮を高祖、弟子の日朗を二祖と位置づけている。 本国寺が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)3月で、四祖日静上人の時である。日静は室町幕府初代将軍足利尊氏の母・上杉清子の弟で、尊氏の叔父であった。そのため、幕府からの支援もあり、日静は光明天皇より寺地を賜ると六条堀川に寺基を移転させた[2]。また、天皇から「正嫡付法」の綸旨も受けている。寺地は北は六条坊門(現・五条通)、南は七条通、東は堀川通、西は大宮通までの範囲を占めた[3]。以降も寺は足利将軍家の庇護を受けたほか、応永5年(1398年)には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている[3]。比叡山延暦寺を御所の艮(北東・鬼門)とすると、本国寺は坤(南西・裏鬼門)に当たるため、皇室からも崇敬された。こうして本国寺は六条門流の祖山として隆盛を誇った。甲斐国の久遠寺が「東の祖山」と呼ばれるのに対し、京都に栄えた本国寺は「西の祖山」と呼ばれるようになる。 文明14年(1482年)に、後土御門天皇の勅諚により「法華総本寺」の認証を受けている。 天文5年(1536年)の天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに焼き討ちされて焼失し、堺にある末寺の成就寺に避難した。天文11年(1542年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、本国寺は天文16年(1547年)に六条堀川の旧地に再建された。 永禄11年(1568年)、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。翌永禄12年(1569年)には本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される事件・本圀寺の変が発生した。本国寺はなんとか損傷を免れたものの、信長は本国寺の一部の建物を解体して二条御所(二条城)建築に用いることを決める。本国寺の一部の建物は取り壊され、それぞれの建築物は二条御所に運ばれて再組み立てされたという[4]。さらには屏風や絵画などの本国寺の貴重な什器類までもが運び去られた。 天正13年(1585年)、豊臣秀吉により山城国菱川村(現・京都市伏見区)に朱印地177石が与えられた[3]。天正19年(1591年)、日重により求法檀林(学問所)が開檀される。同年、豊臣秀吉の命により本願寺造立のため、寺地のうち南側の二町を本願寺に割譲している。 加藤清正は当寺を篤く信仰し、開運門を寄進している。 元和元年(1615年)に徳川家康は本国寺の寺領を安堵している[3]。
歴史
中世
近世