本因坊
[Wikipedia|▼Menu]
第一世本因坊算砂旧跡、京都市左京区仁王門通東大路西入南側寂光寺前囲碁本因坊発祥の地、京都市中京区寺町通夷川上る東側

本因坊(ほんいんぼう)
江戸時代安井家井上家林家と並ぶ囲碁家元四家のうちの一つ(→後述の「本因坊家」を参照)。

昭和になって創設された、囲碁棋戦の一つである本因坊戦に優勝した棋士に贈られるタイトル(→後述の「本因坊戦」を参照)。

本因坊家

織田信長豊臣秀吉徳川家康三英傑に仕えた(とされる[注 1])日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺塔頭の一つに由来する。「本因坊」はもとは連声して「ほんにんぼう」と読んだが、囲碁の普及に伴って「ほんいんぼう」と読まれるようになった。

以降5人の名人を含め名棋士を輩出し、江戸期を通じて囲碁四家元、将棋方三家の中で絶えず筆頭の地位にあった。道策丈和秀和秀策秀栄などは、中でも高名である。明治以後にもその権威は受け継がれるが、1938年(昭和13年)に二十一世本因坊秀哉が引退した際、その名跡を日本棋院に譲渡し、家元制から実力制に移行することとなった。1941年(昭和16年)に第1期本因坊戦が開催され、現在まで続いている。

本因坊家の外家としては、水谷家(水谷琢元、水谷琢順、跡目琢廉、跡目順策、水谷四谷)がある。
歴代世襲制本因坊

本因坊家歴代家元を以下に記す。十九世秀栄、二十世秀元は再就位。また、表の下にある4名は、跡目(次期家元)に指名されたものの、就位しなかった者である。

世数棋士生年名人段位
一世
本因坊算砂1559-一世名人
二世本因坊算悦1611-
三世本因坊道悦1636-準名人
四世本因坊道策1645-四世名人二代目碁所
五世本因坊道知1690-六世名人四代目碁所
六世本因坊知伯1710-六段
七世本因坊秀伯1716-六段
八世本因坊伯元1726-六段
九世本因坊察元1733-七世名人五代目碁所
十世本因坊烈元1750-準名人八段
十一世本因坊元丈1775-準名人八段
十二世本因坊丈和1787-八世名人六代目碁所
十三世本因坊丈策1803-七段
十四世本因坊秀和1820-準名人八段
十五世本因坊秀悦1850-六段
十六世本因坊秀元1854-六段
十七世本因坊秀栄1852-九世名人
十八世本因坊秀甫1838-準名人八段
十九世本因坊秀栄再任--
二十世本因坊秀元再任--
二十一世本因坊秀哉1874-十世名人


四世跡目 - 本因坊道的 七段

四世跡目 - 本因坊策元 七段

十一世跡目 - 本因坊知策 五段

十四世跡目 - 本因坊秀策 七段

本因坊戦
創設

本因坊戦
公式戦(七大タイトル)
概要
主催
毎日新聞社日本棋院関西棋院
特別協賛大和証券グループ本社
優勝賞金850万円(79期から)[1]
挑戦手合五番勝負(79期から)[1]
棋戦形式16名による本戦トーナメントで挑戦者決定(79期から)[1]
持ち時間3時間(79期から)[1]
秒読み5分前より(79期から)[1]
創設年1939年
開催時期挑戦手合: 5-7月
本戦: 前年10月-4月
公式サイト本因坊戦
記録
現本因坊一力遼(第78期)
名誉称号本因坊秀格(二十二世本因坊)
本因坊栄寿(二十三世本因坊)
本因坊秀芳(二十四世本因坊)
本因坊治勲(二十五世本因坊)
本因坊文裕(二十六世本因坊)
最多優勝本因坊治勲(12期)
最長連覇本因坊文裕(11連覇)
テンプレートを表示

当初は、東京日日新聞及び大阪毎日新聞主催で、のち二社が合併して毎日新聞社主催となる。

1934年(昭和9年)、東日学芸部長の阿部眞之助が囲碁及び将棋の「実力名人戦」を企画し、1935年に将棋の名人戦が開始[2]。囲碁は本因坊秀哉の意向もあり本因坊戦とされ、1936年に秀哉は日本棋院に本因坊の名跡を譲渡。阿部の部下の黒崎貞治郎が担当して本因坊戦は1939年(昭和14年)に開始することになった[3](本因坊戦が開始する前の東日及び大毎は「全日本囲棋選手権大会」及び本因坊秀哉の引退碁を掲載していた[4])。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:124 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef