本告辰二
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もとい たつじ
本告 辰二
生誕
1892年2月22日
日本 佐賀県杵島郡須古村(現・白石町
死没 (1916-08-22) 1916年8月22日(24歳没)
中華民国 梨樹県郭家店鎮(現・中華人民共和国梨樹県郭家店鎮)
死因戦死
墓地中華民国梨樹県郭家店鎮(現状不明)
記念碑中華民国梨樹県郭家店鎮(現状不明)
国籍 日本
別名浩々散士(
教育佐賀県立鹿島中学校卒業
熊本陸軍地方幼年学校卒業
東京陸軍地方幼年学校中退
影響を受けたもの川島浪速宮島詠士
運動・動向第二次満蒙独立運動
受賞勲八等瑞宝章(1914年頃)
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本告 辰二(もとい たつじ、1892年明治25年〉2月22日 - 1916年大正5年〉8月22日)は、大正時代大陸浪人[1]川島浪速に師事し、中華民国へ渡航して第二次満蒙独立運動に参加。巴布扎布の軍に所属して戦闘を行ったが、郭家店で戦死した[2]
生涯
生い立ち

1892年(明治25年)2月22日、佐賀県杵島郡須古村(現・白石町)にて、父・嘉一郎と母・ケサの元に生まれる[3]本籍地は須古村大字堤620番地[4]。家は代々に渡り櫛田明神の勅使代を務め、後には佐賀藩の支封である鍋島氏に仕え、士班の長となった家柄であった。また、祖父の忠孝は文武に秀で、父は丹青、母は和歌をよくするという家庭であった[5][3]。6歳で母を失い、以降は継母により育てられたが、継母からは肉親同様の愛情を受けて養育された[3]

のちに本告が今村に述懐したところによると、5歳か6歳の頃、他の子供たちと共に、人家から離れた寺の石垣の上で遊んでいた際、一人の子供が転落。他の子供たちがおろおろしている中、本告は鐘楼へ上って鐘をつき、村民を呼び集めた。このことで転落した子供の命は助かり、以来本告は神童扱いされるようになったという[6]

13歳で鹿島中学校(現・佐賀県立鹿島高等学校)に入学[3]。その後、熊本陸軍地方幼年学校へ入り[3]、第十期卒業生として卒業[7]1907年(明治40年)[3]、または1909年(明治42年)9月に[5]東京陸軍地方幼年学校に入学した[3]

在学中は文学・歴史・地理の書籍を好んで読み、暇があれば林間で静坐したり、木剣を振ったりして鍛錬に勤しんでいたという。一方で数学や外国語には力を注がず、訓戒を受けても意に介さなかったため、1910年(明治43年)の進級時には留年となり、1912年(明治45年)5月の卒業の頃になって退学せざるを得なくなった[3]。または、退学の理由は義憤により人を殴ったためともされる[8]

区隊長の川上眞中尉は、本告を有為の材であるとしてこのことを惜しみ、校長の松浦寛威も同様であったため、知人の川島浪速に依頼して本告の指導を依頼した[3][5]今村貞治は、先輩である川上から「本告の英語の点数がまずく、落第に決定した。これで落第が二回連続だから、校則によって退校処分になってしまった」と連絡され、急なことで行く宛てがないから、知人だという川島浪速に頼んでくれないか、と依頼があったとしている。今村は本告を川島へ紹介し、本告は川島宅で書生になることとなった[9]。また、善隣書院へ入って支那語を学ぶこととなり、また書院附属の清溪塾に寄宿して、院長である宮島大八からも教授を受けた[3]

1913年(大正2年)3月、輜重輸卒として第十八師団に召集され、3ヶ月の服務に従事した。その後再び清溪塾へと戻った[3]


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